「世界に一つだけの憲法」
我が国の憲法は、誰もが知っているように国による交戦権を認め
ていない。いわゆる先進国の中で「武力による威嚇又は武力の行使
を『放棄』」している国など存在しない。もしも、それらの国々が
「普通の国」だとするなら、我が国は明らかに「普通の国」とは言
えないだろう。ところが、「普通の国」ではないにも拘らず、軍事
力を誇示する国々に対して武力を放棄するように求めてきただろう
か。我が国は「丸腰」であるにも拘らず武力によって威圧する大国
に対して何もしてこなかった。敢て言えば、我が国は武力を誇示す
る国々に対して「武力を持たないこと」を誇示するべきではないか。
更に、それらの国々に対しても武力に頼らずに話し合いによって解
決するべきであると強く訴えるべきではないだろうか。つまり、平和
憲法こそが我が国の武器なのだ。我々が憲法を改めて「普通の国」
になるのではなく、反対に普通の国々こそが武力を放棄した我が国
を倣うように働きかけることが、「正義と秩序を基調とする国際平和
を誠実に希求する」平和憲法を起草した者の願いだったのではない
だろうか。だから、我が国の憲法がいつまでも世界に一つだけの憲
法である限り、そして、我々が普通の国に戻って軍隊を持つべきだと
思っている限り、常に我が国は軍事大国の脅威に怯えながら、憲法
が謳う「正義と秩序を基調とする国際平和」など決して実現できないだ
けでなく、再び普通の国々との「力こそ正義だ」の軍拡競争に逆戻り
することだろう。そして、それがもたらすものは正義でも秩序でもなく、
悲しみと怨恨に呪われた忌まわしい過去の再現でしかないだろう。
私は、あえて我が国の平和憲法が目指している「理念」を語って
いるのだが、一国だけの「戦争放棄」がその国を平和にするなどと
は努々思っていない。では反対に、我が国が軍事力を増強し核武装
して北東アジアの平和が本当に実現するだろうか?我が国は「丸腰」
であるからこそ、北東アジアの安全と平和のために軍事大国の米国
や中国、或いはロシアに対しても「武力による威嚇又は武力の行使
を放棄する」ように求めることが出来るのではないだろうか。もち
ろん、軍事大国に怯まずに「丸腰」で渉り合うには強い覚悟がなけ
ればならないだろう。我が国の安全は大国の脅威に対して独自の軍
事力で守ることなど出来ないのだから他国との信頼関係を築かなけ
ればならない。我が国に対する信頼とは、他国への如何なる武力行
使も放棄した平和憲法こそがその拠り所となるのではないか。そし
て、武力放棄した我が国こそがイニシアティブを取って東アジアの
デタント(緊張緩和)を推し進めることができるのではないだろうか。
もちろん、中国にとっての脅威である米国との関係が問題になり、
日米同盟は距離を置かざるを得なくなると思うが、しかし、今のよ
うな隷属関係は好ましいとは思えないし、何よりも東アジアの安全
と平和こそが我が国にとっては重要であり、沖縄からの米軍の撤退
はその時に実現するだろう。
我が国の平和憲法とは、パワーポリティックスというパラダイム
からの逸脱であり、それは国家主義の超克である。何故なら、本来
軍事力を持たない国など国家とは呼ばないからだ。つまり、「戦争
の放棄」とは、国家がその誕生以来何度も繰り返してきた戦争の歴
史を終わらせようとする試みではないか。従って「戦争の放棄」を
決意した国家の国民は「戦争の放棄」の思想を世界中に敷衍させな
ければならないのだが、我々はパワーポリティックスへの回帰ばか
りを求めて、平和憲法の使徒としての使命を何一つ果たしてこなか
った。例えば、中国政府による周辺諸国への強権介入に対して、な
ぜ強く抗議しなかったのか。中国共産党による非人道政策に対して
なぜ改めるように訴えないのか。それらは明らかに「正義と秩序を
基調とする国際平和を誠実に希求する」者たちによる行いとは言い
難い。更に北朝鮮に対しても、或いはアメリカに対しても。即ち、
我が国は平和憲法によって「丸腰」を強いられているからこそ世界
の平和に対して関心を持ち勇気を持って係わらなければならないの
ではないだろうか。我々は「普通の国」に戻る前に、平和憲法の下
で訴えるべきことがまだ随分残されているのではないだろうか。一
番危険なのは平和憲法の上で胡坐を掻いて激変する世界から目を逸
らして、世界に一つだけの憲法で終わらせることではないか。護憲
を訴える人も改憲を求める人も、イデオロギーにばかり執着して目
の前の現実から逃避してる。