「無題」
(五)―⑤
「押す」と書かれたボタンを片っ端から押しまくっても自販機は
云とも寸とも言わなかった。喉の渇きに加えて気持ちまで渇いてき
た。遂には収まりがつかずに叩いたり蹴ったりしたがどうにもなら
ない。すると、黙って堪えていた自販機が、
「どうかしましたか?」
と喋った。そんな馬鹿なと思いながら裏側を覗くと、道路下の斜面
の樹木に埋まるようにして民家の瓦屋根が見えた。こんなとこに家
があったのかとその時まで気づかなかったが、その家の者と思われ
る男が玄関先からこっちを見上げながら両手を口に当てがって叫ん
でいた。
「どうしました?」
私は、
「ジュースが出ない!」
と、その男を見下ろしながら言った。男は道路へ通じる脇道をゆっ
くりと大股で上って来ながら、
「それ、千円札は使えませんよ」
私は、それなら始めから断り書きをしておけと思いながら、
「あっ、千円札入れました」
と答えると、
「貼り紙がしてあったでしょ」
「いいえ」
「あれ?」
彼は到着すると自販機を点検して、
「あ、剥がれたんだ」
そう言って鍵を使って中を開けた。そして、ウワバミの喉元に詰ま
った千円札を取って私に返した。
「すみませんでした。で、何を買うつもりでしたか?」
「あ、スポーツドリンクを」
と言うと、その中からスポーツドリンクを取って差し出した。私が、
小銭は持っていないと言うと、迷惑をかけたから要らないと言った。
彼は、私と同じ年恰好だったが明らかに勤め人ではなかった。まる
でゴルフにでも行くような恰好で真っ赤なポロシャツを着て、白い
タオルを首に巻き、イルカのマークが付いた紺色の帽子を被り、た
だゴム長を履いていた。何よりもそう思わせたのは日焼けした顔だ
った。まだ春になったばかりでこんなに焼けるものなのか。それに
無精からなのか敢て中途半端に揃えているのか、白いものも目立つ
髭をはやしていた。もし、彼が東京の如何なる場所に現れても間違
いなく怪しい人物と警戒されるだろう。ちょっと前に流行ったいわ
ゆるチョイ悪親父風だった。私はこの手の人間が元来苦手だった。
若い頃はきっとシティーボーイを気取っていたに違いない、そして
こう吐いていたに違いない、
「世の中は男と女だけなんだからさ、もっと楽しく生きなきゃ」
って、おまえがそのことしか考えてないだけじゃないか。
「どうしました?」
「あっ!いやぁ、よく焼けてますね」
「ああ、百姓ですから」
「あっ、農家の方ですか」
そう言って真っ赤なポロシャツに眼をやると、彼も気づいて、
「あっ、これ。ほら、畑に出るとどこに居るかわからないでしょ、
家の者が見つけやすいように」
「なるほど」
どうやら私は勝手な先入観に囚われていたようだ。不審な身形なら
その場所でははるかに私の方が相応しくなかった。くたびれたスー
ツに革靴で山の中をとぼとぼと一人歩いているのだから。
「おひとりですか?」
彼への詮索はすぐに反射して自分に返ってきた。私は、余計なこと
を聞かなきゃよかったと思いながら、何故自分がこんな身形でこん
なとこにに居るのかを説明するのがめんどくさくなったので、適当
な方便を探した。
「ちょっと失礼」
そう言ってペットボトルの栓を捩じると歯軋りのような音がした。
「あ、どうぞ」
そして横を向いてラッパ飲みでスポーツドリンクを喉に流し込んで
から、
「ほら、この先に美術館があるでしょ」
「ええ、あります」
「私はどうもそっちはレイマンでして、連れが何時までも観るもん
ですから、それよりも山を見ていた方がいいって言って飛び出して
来たんですよ」
「レイマン?」
「あ、失礼。素人ってことです」
私は優越感を隠して物静かに言った。すると、
「ああ、なるほど。あれ?でも今日は何曜日でしたっけ」
「えーっと、確か水曜日ですね」
「そうですよね。美術館って休みじゃなかったですか?」
私は焦ってその質問は無視して、
「あっ、そろそろ戻らないと連れが待ってますので。色々ご面倒を
お掛けしました。それじゃあ」
頭を下げて冷や汗を掻きながら足早にその場を立ち去った。
(つづく)
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