「ドストエフスキーの生活」

2012-05-04 15:16:18 | 従って、本来の「ブログ」




         「ドストエフスキーの生活」


 小林秀雄の「ドストエフスキーの生活」を読んだ。ドストエフスキ

ーは若い頃に「罪と罰」を読んだきりだが、若過ぎたからか殺人の動

機を生んだ心理背景がまったく理解できず、主人公ラスコーリ二コフ

が殺人を犯して捕まるまでのサスペンスストーリーだけしか記憶に残

らなかったが、今ではそれすら忘れてしまい、ただ、読んだことがあ

ると覚えているだけだ。その後に「白痴」も読んだが、主人公ムィシ

キンが多額の遺産を手にした件(くだり)で、その頃、自分は食うや食

わずのその日暮らしで、どうしてそこの生活から抜け出そうかと煩悶

していたので、思いも寄らない財産が転がり込んでくるなどという凡

そわが身には起こり得ない夢物語に付き合えなくなって先へ進めなか

った。そしてそれ以来、ドストエフスキーの本を開くことは無かった。

 かつて、ロシア文学が日本の近代文学に大きな影響を与えたことは

誰もが知るところで、それはどちらも西欧近代文化の波に圧倒された

焦燥感を共有していたからだろう。ロシアは新しい国家で文字通り西

欧文化の後塵を拝してきた。ドストエフスキーが生きた頃のロシアは、

西欧近代化の波が押し寄せ、皇帝による専制支配が揺らぎ社会変革の

激動の渦中にあった。それはちょうどわが国の徳川幕藩体制が揺らぎ

始めた幕末から明治維新の頃に重なる。明治新体制になると、近代文

学は、まずロシア語を修学した二葉亭四迷によって言文一致の文体が

世に認められ、続いてツルゲーネフやトルストイといったインテリゲ

ンチャの小説が翻訳され、人間とは、或いは社会とは如何にあるべき

かを模索していた人々は光明に集まる虫のようにそれに群がった。と

ころがその後、ロシアは二度の革命を経て社会主義国家への道を選ん

で、それは日本社会にも大きな影響を与えた。社会主義思想が持て囃

され日本文学にも影響を与え、白樺派が生まれた。私自身のことを言

えば、有島武郎は寝る間を忘れて貪り読んだ作家の一人だった。そん

な時代に生まれた小林秀雄はさすがにロシアの社会や文壇の事情をよ

く知っていた。当時、トルストイの死を巡って正宗白鳥の文に噛み付

いて反論したことは有名である。小林秀雄がドストエフスキーの「思想」

ではなく「生活」としたところに論争への拘りが垣間見れる。作家という

のは、或いは芸術家というのは理想という目的を手に入れる為なら、

現実をその手段として惜しみなく投げ捨ててしまうのだ。

 ドストエフスキーの波乱の生涯は政治犯として捕えられたことから

始まる。(ペトラシェフスキイ事件) 彼と一緒に捕まった二十三人の

うち二十一人に死刑の宣告が言い渡された。そして、今まさに銃殺に

よって刑の執行が行われようとする直前になって、皇帝による特赦に

よって執行が免れた。そのうちの一人は気が狂れたという。ところが、

それらのことは皇帝によって予め仕組まれていたことだったというの

だ。その体験はもちろん彼の作家としての人生に大きな影響を与えた。

その様子は、彼と共に死刑を言い渡されたスペシュネフの回想によると、

「十二月二十二日の未明、被告一同は何の為に何処に行くかも知らず

馬車に乗せられていた。窓には厚い氷が張りつめて、往く道の様子さ

えわからなかった。『とうとう着いた。七時半であった。愕然とした

僕達の眼前には、断頭台と柱が二十本並んでいた。断頭台の上に連れ

られると、片側に九人、片側に十一人、二列に立たされた。やがて監

視の者が死刑の宣告文を読み上げた。読んでいる時太陽が出た。僕と

ドゥロフの傍らにいたドストエフスキーが「僕にはまだ死ぬんだとは

信じられない」とささやいた。ドゥロフは、折から大きな菰につつん

だ荷を幾つも乗せた荷馬車が着いたのを指し、「僕等の棺桶さ」と言

った。もう疑うものはなかった。死はそばまで来ていた、・・・・!』」、

ドストエフスキーが書いた「白痴」の主人公「ムィシュキンの言

葉を借りれば、『死刑というのは人殺しよりよっぽど残酷なものです

よ。森の中で夜強盗に惨殺される人だって、いよいよという最後の瞬

間まで逃れる希望を捨てやしない。そういう例しはよくあるんですよ。

咽喉を断ち切られていながら、希望はすてない、転げまわって救けを

呼ぶんです。それを、その逃れられない終末を確実に知らせて了う、

希望さえあれば十層倍も楽に死ねるところを、死刑囚からは、その希

望を取り上げて了う。宣告を読み上げるでせう、どうしたって遁れっ

こはないと合点するところに恐ろしい苦痛がある、世界中にこれ以上

の苦痛はありません。』」

 そんな体験をした者が命拾いをしたからと言って退屈な日常生活へ

戻っていけるはずもない。更に、彼には持病の癲癇があってしばしば

卒倒した。激しい感情に駆り立てられて、人妻に一目惚れして奪い取

り、賭博にのめり込んでは借金を作り、兄や知り合いに無心する手紙

を多数残している。ここまで書いて太宰治を思い出した。彼もまた一

説によると境界性人格障害者(ボーダー)だったらしい。収まらない感

情を酒で紛らわせて情事に溺れ、厭世感に苛まれて自死行為を繰り返

し、遂に心中して果てた。彼が如何に破滅的で不倫理であったにして

も、彼が残した作品の純粋さは穢れることはない。

 ドストエフスキーの賭博とはルーレットで、絶対に勝つ『システム』を

見つけたと言うから、ハテどんな『システム』かと思えば、「勝負のど

んな局面にぶつかっても、決してのぼせない、たったそれだけのこと

です。この方法でやれば、断じて負けない。必ず儲かります」(1863

年、パリより、義姉宛)、というバカらしいものだったが、それでも作家

だった彼は負けた腹いせからか「賭博者」という小説を書いて負けを

取り返すことができたのかもしれない。バルザックのように。

 小林秀雄は「ドストエフスキーの生活」の中で、いかに生活や行い

が堕落していても、生み出される思想は穢されないことを言いたかっ

たに違いない。それは、正宗白鳥がトルストイの本に書かれた理想と

実際の生活がかけ離れていたことを嘲笑ったことへの反駁のように思

える。彼は、この本の巻頭の題句にニーチェの言葉を引用している。

「病者の光学(見地)から、一段と健全な概念や価値を見て、又再び逆

に、豊富な生命の充溢と自信とからデカダンス本能のひそやかな働き

を見下すということ――これは私の最も長い練習、私に特有の経験で

あって、若し私が、何事かに於いて大家になったとすれば、それはそ

の点に於いてであった。」(ニーチェ「この人を見よ」)  ドストエフスキー

の眼はまさにそれであったと小林秀雄は文中にも引用して書いている。

そしてそれは、評論家小林秀雄が鍛えた眼でもあった。彼は、「美し

い花がある、花の美しさというものはない」(當麻)と言った。ゾレン「理

想」はザイン「現実」を越えて存在し得ない。「花の美しさ」とは現実を

見失った理想である。正宗白鳥はトルストイの理想とはかけ離れた現

実を嗤った。しかし、理想を求めない現実とは「ただのもの」でしかない。

芸術家や思想家とは理想を追い求める者、或いは理想から現実を見

て正す者である。彼らは如何に堕落した現実に甘んじていようと理想

を追い求めているのだ。たとえ、玉川上水で愛人と情死しようが、山の

神と諍い出奔して野良で横死しようがそこに自分自身はないのだ。

 ドストエフスキーは、何度目かのトルコとの戦争になった時、こんな

ことを言っている。

「戦争というものは、最少の流血と、苦痛と、損害とを以って国民間

の平和を獲得し、幾分でも国民間の健全な関係を定める行動であ

ることを信じ給え。勿論これは悲しいことだ。が、そうだからと言って、

ではどうしたらいいのか。無期限に苦しむより、いっそ剣を抜いて了

った方がいいのである。文明国民間の現代の平和が戦争より何処

がいいと言うのか。それ許りではない。人間を獣にし残酷にするの

は、戦争ではなく寧ろ平和、長い平和だ。長い平和は常に残酷と卑

怯、飽くことを知らぬ利己主義を生む。就中、知識の停滞を齎す事

甚だしい。長い平和が肥やすものは投機師だけである。」(「作家の

日記」一八七七年、四月)

 堕落した平和より国内秩序を健全にする戦争の方がましだと言う

のだ。まるで、生きているのはつまらんから死んだ方がマシだ、と

言っているようなものだ。もちろん、その時代背景を配慮して読まな

くてはいけないが、社会構造が転換することは人々にとって大きな

ストレスであることは間違いない。ただ、「人間を獣にし残酷にする

のは、戦争ではなく寧ろ平和、長い平和だ。長い平和は常に残酷と

卑怯、飽くことを知らない利己主義を生む」と言い、そして、「長い平

和が肥やすものは投機師だけである」。  それはまるで今のこの国

そのものではないか。が、そうだからと言って、ではどうしたらいいの

だろうか?いっそ世界の閉塞状況をぶっ壊すために砲弾をぶっ放

せというのは恐らく何の解決も齎さない。すぐに元の木阿弥に戻るだ

けのことだろう。アメリカが軍事介入したイラクやアフガニスタンのよ

うに。これを引用した小林秀雄は戦中の「近代の超克」と題された対

談で日本の参戦を容認する発言をしていたことを思い出さずには居

られない。ドストエフスキーは人と社会が織り成して生まれてくる心理

や観念を様々な視点から注意深く観察することに経験を積んだ。「若

し私が、何事かに於いて大家になったとすれば、それはその点に於

いてであった。」と彼も言えたに違いない。小林秀雄はその本の中で、

彼が「真理」というものはどういうものであるかを、彼の言葉を引用し

ている。

「僕は、公の仕事で、僕の最も深い確信をぎりぎりの結論まで持って

行った事がない。つまり自分の『最後の言葉』というものを書いたこ

とはない。(中略)  若し君が最後の言葉を発し、全く素直に(風刺的

な方法は全く避けて)『これこそメシアだ』と言えば、誰も信じようとは

しないだろう。何故かというと、君は君の思想の最後の結論を口に

するくらい馬鹿者だということになるからだ。多くの有名な機智に富

んだ人、例えば、ヴォルテェルのような人が、若し暗示や風刺や曖

昧さを一切捨てて、一と度己れの真の信条を吐露し、真の自己を語

ろうと決心したなら、恐らく十分の一の成功も覚束なかっただろう。

嘲笑されたかも解らない。最後の言葉というものを人々は聞き度が

らない。『一度口に出したら、その思想は嘘になる』というその『口に

出した思想』に対して、人々は偏見を抱いているのです。」(一八七六

年、七月、ソロヴィヨフ宛) 

 晩年の彼は、友人が口述筆記のために紹介してくれた若い女性

(21歳)と結婚をして、その時彼はすでに46歳だった、二女二男を

儲けたが、長女はすぐに病死し次男も若くして先立った、彼女に支

えられて安定した生活を得て、ライフワークの「カラマーゾフの兄弟」

を執筆したが、「完」を記すことが出来ずに急逝した。六十歳だった。

 これを機会に彼の本をもう一度開いてみようかと思っている。

 「でも、長いからな」

 ロシア文学とは、一年の半分以上を氷雪で覆われた時間さえも

凍った土地で、部屋に籠って本を読むしか他ない人々のために、

読み終えるとヴォッカを飲むことしかなくなる読者のために、3行も

あれば語れる顛末を3ページ費やしても結末させない。



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