「無題」
(五)
間もなく、何度か家族で訪れたことのある温泉町の駅に停車する
と車内アナウンスがあった。私は、電車に飽いていたので降りるこ
とにした。平日のこともあって乗り降りは少なかった。そして、す
ぐに妻にデンワをした。
「美咲は居る?」
「どうしたの、急に?」
「ちょっと」
「ええ、居るわよ。さっきごはんを食べて部屋へ戻ったとこだから」
私は、もしかしたらあの電車に飛び込んだのは美咲じゃなかったの
かと気になっていた。安堵して、妻に今朝起きた人身事故のこと、
それから今日は会社を休むことになったと伝えた。すると、すでに
彼女は朝のニュースで聞いて知っていた。
「やっぱり、そうだったの」
記憶を遡りながら説明しているうちに、被害者、自殺した人も被害
者と呼ぶのが相応しいかどうかは知らないが、彼女のあの眼が再び
脳裏に蘇えってきて一瞬ことばを失くしたが、それは面倒だったので
言わずに、ただ、帰りの電車で寝過ごしてしまって今とんでもない所
からデンワしていることを伝えてから、折角だから温泉でも入ってか
ら帰ると言うと、
「なーに、自分だけ」
そう言われてみれば美咲が家を出てから家族四人揃って出掛けたこ
とがなかった。
「じゃ、いつかみんなで旅行でもしようか」
「いつ?」
「だからいつか」
「そんなのばっかり」
彼女が愚痴るのも分る。これまでは仕事ばかりでとても行けなかっ
た。たまの休みも専ら睡眠不足を取り戻すために横になりたかった
ので、下の娘を遊ばせることさえ気が重かった。だから家のことは
いつも先送りして「いつか」が口癖になってしまった。しかし、身
体を悪くして自分の仕事を人に譲ってからは暇を持て余すことの方
が多くなった。
「わかった。じゃあその時のために下見しとくよ」
お茶を濁してデンワを切ったが、自分の中では大きな変化を求めて
いることに気が付いていた。一言で言うと今の自分がつまらなかっ
た。生き甲斐と言うものがなかった。
(つづく)