「目覚めた獅子 中国」
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そもそも儒教道徳は権力闘争に明け暮れる権力者が君臣関係を維
持するために庇護したことから広く支持された、謂わば上から押し
付けられた君臣道徳である。以下はまったく私の独断と偏見による
推論であるが、うろ覚えで恐縮だが、作家司馬遼太郎は自著「項羽
と劉邦」の中で、中国の庶民は昔からできるだけ政治に関わらない
ようにして生きてきた、みたいなことを書いていたが、何もそれは
中国社会だけではなく、わが国の武家支配においても同じことで、
武士は刀を帯びて身分の低い者には威圧的で、庶民はできるだけ拘
らないようにして生きていた。今の時代で言うと暴力団に対してで
きるだけ拘らないようにするようなかもしれないが、実際に封建時
代の中国では厳格な儒教道徳の下で道を外した者への懲罰として足
を切り落とすなどの「肉刑」が横行していた。つまり、暴力団が掲
げる「仁義」や「任侠」などといった名分や、或は過ちを償うため
に武士が切腹したりヤクザ者が指を切り落としたりする行為は厳格
な儒教道徳からもたらされた。政治学者の丸山真男は、自著『日本
政治思想史研究』の中で、江戸時代前期の儒学者山崎闇齋が開いた
私塾では、門弟たちはそのリゴリズム(厳格主義)による緊張から講
義を終えて門を出た後はその解放感にしばらく立ち尽くした、みた
いなことを書いていたが、つまり、儒教道徳は人々に身分を弁えさ
せるための「リゴリスティックなヒエラルキー」(丸山真男)こそが
重要であって、真理そのものは第一義ではないのだ。
(つづく)