「二元論」
(5)
ところで、「世界=内=存在」であるわれわれは、世界全体を
世界の外の視点から認識することはできない。世界とはこうであ
るというわれわれの認識は、「内=存在」としての視点からの認
識にならざるを得ない。つまり、われわれの理性とは世界の中か
ら生れた、否、中からしか生れなかった。だとすれば、われわれ
が理性によって世界を作り変えることは、われわれの理性を生み
育んだ世界を作り変えることになる。ニーチェ=ハイデガーはそ
れを始原の存在が忘れ去られる「存在忘却」「故郷喪失」と言っ
た。それは、われわれの理性を生み育んだ世界に対する反逆にほ
かならない。
木田元は、「前期のハイデガーは〈現存在が存在を規定する〉
と考えていた」(木田元『ハイデガーの思想』)と言い、それは、
《人間が世界を思い通りに作り変えることができる》と言い換え
ることができる。そこで、「ハイデガーは人間を本来性に立ちか
えらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈
存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生
成するものと見るような自然観を復権することによって、明らか
にゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化を
くつがえそうと企てていた。」(同書) しかし、どうしても納得で
きないのだが、その企ては挫折したのだが、その理由とは、「人
間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとっておこなうという
のは、明らかに自己撞着であろう。」と言うのだ。そして、「一
方では彼も、すでにこの時代から、存在からの視点の設定が現存
在に先立つとも考えていた。」(同書)とあり、《存在からの視点》
とはわかりやすく言えば「神の視点」だと思えばいいが、つまり、
かつて神が世界を規定したように、神がいなくても、そもそも実
存主義者は神の存在など信じていないのだから、〈存在〉自体が
人間を規定すると考えた。それは、まず世界が存在して、そのあ
とに人間が現われたのであり、つまり《世界が人間に先立つ》の
であって、世界に規定された人間の理性がのちに世界を規定する
ことはあり得ない。そもそも人間は世界を失っては存在し得ない
ので、われわれが存在しないのであれば、当然「世界とは何であ
るか?」を問うわれわれの理性も存在し得ない。
(つづく)