「二元論」 (5)

2021-03-21 19:38:46 | 「二元論」

          「二元論」


           (5)


 ところで、「世界=内=存在」であるわれわれは、世界全体を

世界の外の視点から認識することはできない。世界とはこうであ

るというわれわれの認識は、「内=存在」としての視点からの認

識にならざるを得ない。つまり、われわれの理性とは世界の中か

ら生れた、否、中からしか生れなかった。だとすれば、われわれ

が理性によって世界を作り変えることは、われわれの理性を生み

育んだ世界を作り変えることになる。ニーチェ=ハイデガーはそ

れを始原の存在が忘れ去られる「存在忘却」「故郷喪失」と言っ

た。それは、われわれの理性を生み育んだ世界に対する反逆にほ

かならない。

 木田元は、「前期のハイデガーは〈現存在が存在を規定する〉

と考えていた」(木田元『ハイデガーの思想』)と言い、それは、

《人間が世界を思い通りに作り変えることができる》と言い換え

ることができる。そこで、「ハイデガーは人間を本来性に立ちか

えらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈

存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生

成するものと見るような自然観を復権することによって、明らか

にゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化を

くつがえそうと企てていた。」(同書) しかし、どうしても納得で

きないのだが、その企ては挫折したのだが、その理由とは、「人

間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとっておこなうという

のは、明らかに自己撞着であろう。」と言うのだ。そして、「一

方では彼も、すでにこの時代から、存在からの視点の設定が現存

在に先立つとも考えていた。」(同書)とあり、《存在からの視点》

とはわかりやすく言えば「神の視点」だと思えばいいが、つまり、

かつて神が世界を規定したように、神がいなくても、そもそも実

存主義者は神の存在など信じていないのだから、〈存在〉自体が

人間を規定すると考えた。それは、まず世界が存在して、そのあ

とに人間が現われたのであり、つまり《世界が人間に先立つ》の

であって、世界に規定された人間の理性がのちに世界を規定する

ことはあり得ない。そもそも人間は世界を失っては存在し得ない

ので、われわれが存在しないのであれば、当然「世界とは何であ

るか?」を問うわれわれの理性も存在し得ない。

                     (つづく)


「二元論」(4)のつづきの続き

2021-03-21 07:35:43 | 「二元論」

         「二元論」


          (4)のつづきの続き


 人間は動物には違いないが、ほかの動物と決定的に違うのは理

性を進化させたことである。人間以外の動物は本能のままに「い

まここで」のこと以外は関心を寄せないが、人間の理性は「いま

ここで」を超越して過去や将来の世界までも認識しようとする。

そして、過去の経験からすべての動物は限られた命であることを

認識する。理性によって自らが限られた存在でしかないことを認

識した人間は将来を本能のままに死ぬことをためらう。こうして

「死」の認識はわれわれ人間にある覚悟を芽生えさせる。それは

われわれに理性によって規定された生き方へと向かわせる。理性

に規定された生き方とは本能に規定された生き方からの「転回(ケ

―レ)」にほかならない。改めて言うことではないが、それは本能

と理性の二元論的転回である。そして、理性によって規定された生

き方とは、理性を進化させた人間こそが主体である世界であり、世

界(自然)とは人間が思うように作り変えることができる〈材料・資

料〉でしかない人間中心の科学技術文明をもたらした。

 

               (つづく)が決定稿ではない