「あほリズム」(128)~

2011-03-25 01:57:00 | アフォリズム(箴言)ではありません
        「あほリズム」


            (128)



 我々は進化をモノに託して精神を退化させたのではないだろうか?



            (129)


 「幸福の評価は理性よりもむしろ感情にかかわるのだ」
            ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起原論』より
 
 果たして、我々は幸福を理性で評価していないだろうか?


             (130)


 民族や国家や、敢えていえば家族さえも、概念を共有する個人の

集まりである。つまり、「共同幻想」にすぎない。



             (131)

 私は、「愛さなければならない」とか「独りでは生きていけない」

とか「みんなで力を合わして」とか、その手の「ことば」を聞くと、

解かってはいても、何故か虫唾が走る。たとえば、愛するという

感情は理性によって愛したり愛さなかったりできるものではない。

さらに、独りで生きていけないから社会に留まっているのに、その

「言わずもがな」のことばが感情を苛立たせるのだ。                



                         (つづく)





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「捨てえぬ心地」(2)

2011-03-22 01:28:47 | 「パラダイムシフト」
        「捨てえぬ心地」


           (2)


 果たして我々は、文明を捨てて自然の中へ再び戻って暮らすこと


など出来るのだろうか?その疑問に答えてくれるかもしれない文章

を見つけました。

 以下は、フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの「人間

不平等起原論」(本田喜代冶・平岡昇 訳[岩波文庫、青623‐2]

から、『原注(P)ー95ページ』の一部です。後半は引用の引用にな

ります。時代は1750年代です。



 「何年も前からヨーロッパ人たちが世界のさまざまな地方の未開人

たちを自分たちの生活様式に引き入れるために苦心しているにもか

かわらず、彼らがまだそういう未開人をただの一人も獲得すること

ができず、キリスト教を利用してもできなかったことは、きわめて

注意すべきことである。というのは、わが宣教師たちは、ときおり

彼らをキリスト教徒にすることがあるが、文明人にはけっしてしな

いからである。われわれの習俗を採用し、われわれのような暮らし

方をすることに対して彼らがいだくおさえきれない嫌悪の情は、何

ものによってもこれを制御することはできない。もしもこれらの哀

れな未開人たちが人々のいうように不幸であるならば、いったい、

どんな想像も及ばない判断力の退化によって、彼らは、たえず、わ

れわれを真似て文明化したり、あるいはわれわれの間で幸福に暮ら

したりすることを学ぶのを拒否するのであろうか?ところが、一方、

フランス人たちやその他のヨーロッパ人たちがわざわざ進んでこう

した国民の間に逃れ、非常に奇妙な生活様式をもはや棄てることが

できなくなって、そこでその全生涯をすごしたというような記事を

われわれは無数の箇所で読んだり、分別に富んだ宣教師たちさえ、

それほどに軽蔑されているそれらの民族のもとで過ごした平和で無

垢な月日を感動をもってなつかしがっているのが見かけられたりす

るではないか。もしも人々が、彼らには自分達の状態とわれわれの

状態とを健全に判断するだけの知識がないのだと答えるならば、私

はこれを駁して、幸福の評価は理性よりもむしろ感情にかかわるの

だと答えよう。もっともこの返答は、さらに大きな力をもってその

ままわれわれにはね返ってくるかもしれない。なぜなら、われわれ

の観念と、未開人がその生活様式に見出している趣味を理解するた

めに必要な精神状態とのへだたりは、未開人の観念と、彼らにわれ

われの生活様式を理解させうる観念とのへだたりよりも、さらに大

きいからである。実際、若干の観察を行ったのち、われわれの仕事

はすべてただ二つの対象、すなわち、自分のためには生活の安楽と、

他人の間では尊重されることにむけられているのを認めることは、

彼らにとって容易なのである。しかし、未開人がただひとりで森の

中でその一生をすごしたり、釣りをしたり、あるいはたった一つの

調音も出すことができず、それを覚えようという気もなくて、下手

な笛を吹いたりすることに味わうような快楽を、われわれが想像す

る手だてはどうだろうか。」


 ‐--------中段略(ケケロ脱走兵)-------


「喜望峰のオランダ宣教師たちのあらゆる努力によっても、ただ一

人のホッテントットをどうしても改宗させることができなかった。

ケイプタウンの総督ファン・デル・ステルは、一人のホッテントッ

トを幼少の頃からつれてきて、キリスト教の原理にのっとり、また

ヨーロッパの習慣に従って彼を育てさせた。人々は彼に立派な着物

を着せ、いくつかの国語を学ばせた。そして、彼の進歩は彼の教育

のために払われた骨折りに充分に応えるものがあった。総督は大い

に彼の才智に望みをかけ、一人の監督官とともに彼をインドへ送っ

たが、その監督官は彼を有効に会社の事務に使った。彼は監督官の

死後、ケイプタウンに戻ってきた。帰ってからいく日もたたないう

ちに、彼は、親戚のいく人かのホッテントットを訪問したとき、そ

のヨーロッパ風の装身具をかなぐり棄て、ふたたび羊の毛皮を身に

つけようと決心した。彼は今まで着ていた服を入れた包みを背負い、

その新しいよそおいで保塁へ帰ってきた。そして、その包みを総督

に差し出しながら次のような口上を述べた。『閣下、わたくしがこ

のような衣装を永久に捨てることにどうか注意していただきたい。

わたしはまた全生涯を通じてキリスト教を捨てます。わたくしは、

わたしの先祖たちの宗教と風俗と慣習のなかで生き、そして死ぬこ

とを決心しました。あなたに申し上げたいたったひとつのお願いは、

わたしのつけているこの頸飾りと短剣とをこのままわたくしに残し

ていただくことです。わたしはそれをあなたに対する愛のために保

存するでしょう』こう言うがはやいか、ファン・デル・ステルの答

えも待たないで、彼は逃げ去ってしまった。そしてそれ以後彼はケ

イプタウンで再び見られたことはなかった。」(旅行記総覧)「第

五巻 P175.」


                         (つづく)


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 「捨てえぬ心地」(1)

2011-03-21 21:18:35 | 「パラダイムシフト」
             「捨てえぬ心地」


                 (1)


「世の中を捨てて捨てえぬ心地して都離れぬわが身なりけり」

 西行という人は武士の身分を捨て出家した世捨て人のように伝え

られていますが、上の句のように社会との関わりを全く絶ったわけ

ではありません。それどころか、頻繁に都に姿を現わして社会と交

流した人でした。その思いが「捨てえぬ心地して」に表されていま

す。つまり、彼が捨てたのは社会的身分だけでした。決して余命を

絶って世を捨てた訳ではありません。彼は屈強な体躯をそなえた武

士だった。辞世の句とされている、

 「願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」

と詠んで円寂を果たしたのは奇しくも如月の満月の頃でした。

七十二歳の長寿でした。

 我々と謂えども生まれ育った馴染みのある土地を捨てて、見知ら

ぬ土地へ移り住むとなるとそう簡単に決断できるものではありませ

ん。ただ、仕事の都合で短期間出張するとかでなく、全く戻る宛て

のない別離を言っているのですが、もちろん今では地方と謂えども

東京と遜色なく生活することが出来ますが、西行がいた時代は、華

やかな都を離れれば一転して自然の山野が広がるばかりで、人里に

慣れ親しんだ者が山里の暮らしを強いられるとなるとその侘しさは

一入(ひとしお)で、「都落ち」の落胆は身に沁みたことでしょう。

私が「パソコンを持って街を棄てろ!」を書いてる時も、いつも頭

を過ぎったのはそのことでした。果たして、都民は自発的に東京を

棄てて山々に囲まれた限界集落へ移り住むことができるだろうか?

それには、東京での文明生活にはない希望、行き詰った近代文明に

換わる新しい文明がなければならない。ちょうどその頃、国連IP

CCの報告書が発表され地球温暖化が深刻な問題だと伝えられた。

そして、自然循環型社会への構造転換が叫ばれた。しかし、東京で

自然循環型の生活など出来るわけがない。何故なら自然など無いの

だから。それでは、東京で暮らす人々が希望を抱いて新しい土地へ

移り住むには何が必要なのか?それは自然循環に応じた技術革新で

はないだろうか。そうでなければ東京を捨ててとても限界集落へ移

り住むことなどできないだろう。近代文明の欠陥を補う自然循環型

の技術革新が生まれなければならない。

 それと同時に、我々自身も慣れ親しんだ生活、水道の蛇口を捻る

ように電気を消費する生活を見直さなければならないだろう。新し

いものを掴むには手の中にある古いものは捨てなければならない。



                               (つづく)

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「近代文明の終焉」

2011-03-16 15:09:57 | 「パラダイムシフト」
          「近代文明の終焉」


 私は、今書いている「ゆーさんの『パソ街!』」という小説で、

近代文明はすでに終焉に向かっているのではないか、という仮説の

上で話を創っているところです。ただ、東北で起った大地震そのも

のによって、我々の近代社会が終焉するとは思っていません。それ

は、神戸の震災からの復興を見ても分かるように、壊れた古い町家

はこれ幸いと近代化が押し進められました。我々は、自然による災

害にはただ諦めるしかないからです。さらに、転落した者は再び同

じ場所へ復帰しようとするものです。ところが、今回の原子力発電

所の大事故については、その原因が地震発生による自然災害である

とはよもや誰も思っていないでしょう。さらに、再び同じことが起

らないと断言できない限り、否、できたとしても原発に頼った電力

供給は難しいでしょう。つまり、同じ場所へ戻ることが出来ない。

これまでも国民は、巨大地震発生を想定した上での安全性を、行政

と電力会社から散々聞かされてきました。彼等は国民の不安に対し

て詳細な情報を開示せず、その秘密主義は緊急会見でも見事に繰り

返されました。外に閉ざされた隠蔽体質の組織を丸山真男は「たこ

つぼ社会」と言いましたが、国民の安全よりもまず組織を守ること

が優先されるのです。個人の自由を認めない閉鎖性は儒教序列道徳

の所為だと、私は信じて疑いませんが、それは食品偽装問題等の謝

罪会見で会社が見せた対応とまったく一致します。ただ、原発事故は

今もなお深刻な事態が進行していて軽々に語る訳にはいきませんが、

「近代文明の終焉」はこの原発事故によってもたらされるだろう。

地球温暖化の原因といわれるCO2排出を削減するために、我が国

では原子力発電に大きな期待をかけ、原発はCO2を排出しない「

きれいな」エネルギーだと喧伝され推進されてきました。ところが、

絶対に起らないはずの放射能物質の飛散が起った。放射能汚染はこ

の先何十年も消滅することはない。ただ住めなくなるばかりではな

く、経済に深刻な影響を与えるだろう。それは、単に国内だけに止

まらず、輸出に頼る日本経済にとっても大きな打撃になることはま

ず避けられない。所謂「ジャパンフリー」が起って日本の安全神話

が崩壊する。地震大国の我が国で起った今回の事故は、原発の安全

性そのものも崩壊した。よもや、これからも電力供給を原子力発電

に頼るなどということは、地元住民の強硬な反対にあって出来ない

だろう。そもそも、福島の原発で供給される電気は総べて都心の需

要を賄う為のものなのだ。合理主義経済の一点のためだけに都市へ

の一極集中が図られ、吐き出された不都合な汚物は地方へ放棄され

てきた。しかし、今回の事故はその汚物によって電力供給が賄えな

くなり、やがて1300万大都市東京のライフラインを脅かそうと

している。高層化した便利な暮らしは電気が止まってしまえば、忽

ち玄関にさえ辿り着けない不便な暮らしへと一転する。私は「パソ

コンを持って街を棄てろ!」(百七)の中で、地震によって高層ビル

の一棟でも崩壊すれば東京から人々が逃げ出すだろう、と記述した

が、まさに今、近代都市東京はその機能が寸断され、やがて人々は

「パソコンを持って街を棄て」ようとするに違いない。メトロポリ

ス東京の電力を原発によって賄えなくなれば、1300万都民の生

活の大前提が覆(くつがえ)され、やがて高層化都市は廃墟と化した

限界都市へと変貌するかもしれない。そして、原発事故によっても

たらされた、最先端の近代文明都市東京の崩壊は、紛れもなく「近

代文明の終焉」の象徴となるだろう。

                                 (つづく)                                                                                                                                                 

                                                                                                                                              

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 「あほリズム」(127)~

2011-03-16 01:05:30 | アフォリズム(箴言)ではありません
           「あほリズム」



             (127)



 かつて、人は愛するひとにこう告げた、

「あなたさえ居れば、他に何もいらない」と。

果たして、我々は、今でもそう告げることが出来るだろうか?

この未曾有の大震災は、再び、我々に、愛する人こそが、

どんな豊かさよりも優先することを教えてくれた。


                        (つづく)


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