「アラブの冬」①

2012-02-18 21:06:39 | 「パラダイムシフト」



            「アラブの冬」①


 イスラエルとイランの確執は、最近になってイランの核開発を巡

って暗殺やテロといった襲撃の報復が繰り返されている。イランが

核開発を急ぐ理由の一つには「ジャスミン革命」を皮切りにイスラ

ム諸国の独裁政権がドミノ倒しのように民主化運動によって倒され

たことが影響しているのだろう。更に、現政権は間近に迫った総選

挙で経済政策に対する国民の不満を抑え込もうとして、内憂による

怒りをムスリム共通の外患イスラエルへ誘(おび)こうとしているのだ

ろう。かつてアメリカ支配の下で自由を知ったイラン国民にとって強

権による圧政は耐えられないものに違いない。本来なら「アラブの春」

はイランから始ってもおかしくなかった。選挙の結果がどうあれイ

ランとイスラエルの確執は治まりそうにない。早くもイスラエルは、

IAEAの警告を無視して核開発を続けるイランに対して核施設へ

の攻撃を示唆しているし、アメリカ当局の高官も時期を示してその

可能性を語った。我が国の識者たちは様々な政治力学を読み解いて、

そうはならないと予測しているが、イラン政権がもっとも怖れてい

るのは、民主化運動が自国にも及び国民によって政権が倒されるこ

とだろう。それよりも、イスラエルによる核施設への攻撃は限定的

でシリアへの攻撃の例を見るように民主化運動ほどには脅威だと

は思っていないだろう。それどころか、現政権は国民の政治に対す

る不満の矛先をイスラエルという外患に向けさせることができると

考えるのでなないだろうか。つまり、イラン「イスラム共和国」はムス

リムたちに異教徒国家イスラエルとの聖戦を呼び掛けることで民主

化運動を抑え込もうとするだろう。もしそうだとすれば、イランはイス

ラエル寄りの西側諸国の如何なる説得や制裁にも決して応じず、核

開発を推し進めるに違いない。そして、イスラエルに対する報復テロ

や批難を止めないだろう。その結果、イスラエルによるイラン国内の

核施設への攻撃は避けられなくなる。しかし、それは国内のムスリム

だけでなくイスラム諸国のムスリムに対しても聖戦の大義名分の下に

一致団結を呼び掛け、さらに、国内の民主化運動の芽を摘むことに

もなる。私はイスラエルによるイランの核施設への攻撃は、イランの

思惑もあってそう簡単に消滅するとは思えない。イランが最も怖れて

いるのはイスラエルやアメリカといった外患ではなく、実は、国民によ

る民主化運動という内憂に他ならないから。



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「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」

2012-02-17 12:55:46 | 「パラダイムシフト」



「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」




 14日、日銀は「1%の物価上昇を目指すことを明確化するとと

もに、達成に向けて10兆円規模の追加金融緩和を断行、デフレ脱

却と日本経済回復に向けた強い姿勢を打ち出した。」

                   [東京14日ロイター]

 その結果、今日(15日)の株式は大きく値を上げて9千円台を回

復した。まず、私が気になるのは「デフレ脱却」のシナリオが金融

政策にだけに頼ろうとしていることだ。難しいことは書けなので身

近な例で考えると、幾ら金融市場にお金を注ぎ込んでも実体経済が

冷え込んでいるのに金融の健全な循環は生まれないだろうと思う。

その結果、ダブついた金は再び金融市場へ投資されてカジノ市場を

賑わすだけに終わるのではないだろうか。実は、消費者は将来の不

安からいくらお金があっても使う気にならないのだ。それらは銀行

に預けられたり投資されたりして、経済にとって手段だった金融が

目的化して経済そのものは不活化から抜け出せないでいる。戦争を

するために戦費を増やして最新兵器を開発しても、手段である兵器

の開発が目的化してしまい、最新兵器で闘っても肝心の兵士の士気

はいっこうに揚がらず勝つことが出来ないアメリカ軍のようなものだ。

つまり、金融市場のための金融緩和に終わってしまうだろう。

 我々はこれまでにも数多く「デフレの克服」を唱える学者や経済

人を見てきたが、終ぞ誰一人、では、どうすればそれを克服するこ

とが出来るかを実体経済から語った人はいなかった。つまり、彼ら

は金さえ与えれば消費者は消費するものだと思っているのだ。もち

ろん、私にしても金さえあれば欲しいモノは山のようにあるが、だ

からと言って纏まった金を手にしてもすぐに買い求めたりはしない

だろう。何故なら、新しいテレビも新しい車も新しい家も、もうそ

んなに我々を歓ばせてくれはしないからだ。つまり、そんなものは

安いほど有難いのだ。そんな消費意欲に踊らされない冷めた社会で、

金さえバラ撒けば景気が良くなると信じるケインジアンの経済理論

は、産業革命によって古い経済が終わり、近代社会が発展した成長

期にのみ通用する古い経済学だ。何よりも消費者の意識が変わった

のだ。彼らはチョンマゲを結って文明を知らずに暮らしていたわけで

はないのだ。彼らをただ消費する「消費者(consumer)」と呼んでいる

限り、売り買いが活況を呈するのは博打好きだけが集う金融カジノ

市場に止まり、実体経済の中でモノが売り買いされ活性化することは

まずないだろう。先人の残した既得権益にしがみつきイノベーション

を怠ったこの国の財界の人々は、要するに、彼らのイノベーションとは

テレビや車を最先端技術でリニューアルすることであり、すでにテレビ

や車そのものが古いモノであることを認識していない。彼らは言い古さ

れた言葉ではあるが、以下のアメリカの諺を肝に銘じるべきだ。

「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」

(You can take a horse to the water, but you can't make him drink.)

金融緩和は、「消費者」に金を与えて市場まで連れ行こうとするが、

「消費者」はたとえ欲しいモノがあったとしてもかつてのように飛

びつくことはないだろう。

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「人とバラ」

2012-02-16 01:15:41 | 従って、本来の「ブログ」



                「人とバラ」




 生まれ育った地名をことさら気に留めて暮らしたことなどなかっ

たが、その地を離れ星霜を経て流浪の果てに思わぬことで馴染の地

名を思い返した時、懐かしさと同時に余所余所しさからその地名の

由来が気になって、今さらながらその謂れを確かめようと思ったり

することがある。前に記した大阪の「美章園」という地名は、私の

若かりし「美少年」の頃の思い出と重なって、はて、何故「美章園」

と呼ばれるようになったのかが気になって、その謂れを調べてみれ

ば、何のことのない、大正時代に山岡「美章」という人が設立した「

美章土地株式会社」がこの付近の宅地の開発に努めて発展の基

礎を築いたことから付けられた、とのことだった。

 さて、そんなことならすぐに忘れてしまうが、この国には実にお

かしな地名があるもんだと思ったのが、広島県庄原市西城町にある

「小鳥原」と書いて「ひととばら」と読む地名だ。PCに「ひとと

ばら」と打ち込んでも「人とバラ」としか変換しない。いくら何で

も「ひととばら」とは読めないだろうと思いながら調べてみると、

古語では小を「ヒ」とも読み、鳥を昔は「トト」と言っていたらし

い。だから「小鳥」と書いて「ヒトト」と読むのは決して当て字で

も何でもないのだ。

 ここで私はおかしな地名を取り上げてその由来をツラツラ述べる

つもりではないのだが、その「人とバラ」じゃなかった小鳥原(ひと

とばら)に私がまだ若かりし美章園じゃなかった美少年だった頃に

かつて一度訪れたことがある。中国山地の山奥のそのまた山奥で、

行政上は広島県下だが直ぐ近くには島根県、鳥取県、それに岡山

県の四県が県境を接している。たまたま親戚の農家の稲刈りを手

伝った後に、その農家のお母さんの実家が「人とバラ」じゃなかった

小鳥原だったので、その小鳥原の小学校の講堂で、二十数年来途

絶えていた「比婆荒神神楽団」が再結成され初演される舞台に連れ

て行ってくれた。神楽は夜の帷が下りる頃に始まって夜明かしをして

朝まで行われる。かつては、農繁期を無事に終え収穫の歓びを分ち

合う農民たちの数少ない娯楽の一つだった。それを見物する人々は、

それぞれの家族が御馳走を拵えた重箱を持ち寄って、もちろんお

神酒も振舞われた。昔から広島県の北部の山間地では海の幸が

届く前に腐ってしまうので、海辺で暮らす人々がアンモニア臭があっ

て食べなかった鮫を、そのアンモニアが防腐効果をもたらすこと

から唯一口にすることができる刺身として重宝された。土地の人々

はその鮫の身を「わに」と呼んで、「わにが無いと祭りも正月も来ん」

と祭事には欠かせない御馳走だった。だから、その重箱の中にも

テンコ盛りの「わに」が配われた。

 神楽は「荒神」の名の通りに須佐之男命(スサノオノミコト)が舞

台狭しと暴れ回って遂には八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を成敗する物

語であるが、さすがに夜を徹して演じるには尺が短いので、厳粛な

神事には笑いの逸脱は欠かせないとばかりに、その半分以上は方

言による臨機応変のアドリブで客を弄ったりして楽しませた。そして、

宵も白け始める頃になると遂には睡魔から見物客たちの方がそれ

に応じられなくなって、中には稲穂のように頭を垂れたまま転寝を

する者も目に付き始めると、いよいよ神楽が囃し立てる中をクライ

マックスを迎え、白煙を吐いて八岐大蛇が蛇腹を蜷局に巻いて現

れ出でて、それをスサノオが荒ぶる神よろしく退治する。すると、先

ほどまで頭を垂れていた稲穂たちも実りを忘れてヤンヤの喝采を

送り舞台の演者と一体となって大団円を迎えた。なるほど演劇とい

うのは演者だけでなく観客も一緒に創るのだなあ、と思った。

 たとえば、京都の祇園祭りのお囃子は「コンコン・チキチン・コン

チキチン」と優雅に忘れた頃に打たれるが、岸和田や浪花のだん

じり囃子はその間に同じリズムを三回は繰り返されるほど忙(せわ)

しなく打たれる。都の雅な貴族文化は地方へ流れるほどにその地

の風土に適って荒々しくなる。日常の暮らしが異なれば厳かな神事

という非日常の捉え方も異なるのだ。雅楽の優雅さとは対極を為す

比婆「荒神」神楽を観ながらそう思った。帰りの車中から眠い目を

りながら眺めた神社だと思ったが、その門前には枝を四方に伸ばし

て聳えるイチョウの巨木が今を盛りと葉を黄色く染め、その下では

汚れなき童らが銀杏の実を拾うことに一心だった。あれほど見事な

イチョウの木はこれまでにも見たことがなかった。あのイチョウの巨

木は今も枯れずに在るのだろうか。それらは、私の心の中の原風景

として今も枯れずに在るのだが。

 後日談であるが、二十数年振りの再演にも拘らず、関係者はそ

のその舞台のビデオ収録に失敗して私がカメラ撮影したネガを使

わせてもらえないかと連絡があった。私は承諾してネガを送った。

暫くして、「比婆荒神神楽団」の最初のポスターには私がシャッター

を押した写真が使われていた。私の秘かな自慢である。

 その後二十数年経て、今も「比婆荒神神楽団」はローカルではあ

るが「NHK」の特集で取り上げられほど地域に根差した活動をして

いる。




         

 「森の泉」

2012-02-13 03:35:29 | 従って、本来の「ブログ」



                   「森の泉」



 私の暮らす市には温泉施設が一軒しかなく、それも市町村合併以

前には隣村だったので市内からは離れていて、それでも、温泉好き

の私は週に一回は山間を車を走らせて浸かりに行く。二三年前まで

は市内にも一軒あったのだが潰れてしまった。其処へは車で10分

とかからない距離だったが一度たりとも訪れたことがなかった。そ

れは施設内で大衆演劇が興なわれていたからで、温泉に浸かっての

んびりすることが目当ての者にとって観劇目当ての団体客の襲来ほ

ど興醒めなものはない。さらに人伝ではあるが、酒宴の酔客が出た

後の浴槽には目をも疑うものが浮かんでいたりして汚いと聞いて尚

更で、地元の者たちから評判が良くなかった。思うに、泉質だけでは

客を呼べない施設が興行に頼ったりするのだろうがそのコラボレー

ションはどっちつかずで上手くいってるとは思えない。そもそも、県

下には数多温泉施設があるけれども源泉掛け流しの天然温泉など

一軒もない筈だが、温泉好きの者はそんなことは元より承知してい

るが、それでも白々しく「源泉掛け流し」を謳っているイカサマ温泉が

あるのには驚かされる。私が通う温泉は雑誌「じゃらん」西日本版の

読者投票で愛媛県の松山にある道後温泉に次いで上位に支持され

たほどの泉質で、もっともヤラセの疑いがないとは言えないが、湧出量

は毎分600リットルもあっても「源泉掛け流し」でなく、やはり冷泉を沸

かして湯を作っている。恐らく、今は円高で相殺されているが、何れ中

東の政情不安や新興国の需要が増えて原油の値上がりが避けられな

り、「源泉掛け流し」を謳いながらボイラーで沸かしているようなイカサマ

温泉は看板を下ろさざるを得なくなるだろう。

 私の風呂好きは恐らく子供の頃にあったと思う。大阪の庶民の暮

らしには銭湯が欠かせず、子供たちは親から入浴券を貰うと近所の

なじみの銭湯には行かずに、仲間と連れ合ってあっちこっちの銭湯

を探検することが楽しみだった。阪和線の終点天王寺駅の一つ前に

「美章園」という駅があって、その頃は何とも思わなかったが今に

して思えば何とも曰く在りげな地名だが、その駅近くに「美章園温

泉」という銭湯があった。銭湯と言ってもただの銭湯ではなく、サ

ウナや電気風呂、薬風呂までがある今で言うスーパー銭湯だった。

建物は重厚なアールデコ調で造られ天井には豪華なシャンデリアま

で飾られていた。更にその階上にはダンスホールまであって、裸の

まま階段を上って確かめたことを記憶している。今、PCで確かめ

たら何でも有形文化財に指定されていたらしいが、残念なことに既

に取り壊されていた。

 銭湯の思い出は尽きないが、ある時、どういう経緯か忘れたが、

友だちとの話から、小さな浴槽を飛び越えて向こう側の縁へ飛べる

かということになって、私は一番始めに浴槽を飛び越えて、ところ

が向こう側の縁には立てずに滑ってしまい後頭部を縁にしこたま打

ちつけて、それでも飛び越えることが出来たことを自慢していると

何故かみんな素知らぬ顔をした。それから、みんなと並んで身体を

洗っていると、後ろから見知らぬおっさんが「ぼく、頭から血出てる

で」と教えてくれた。手を頭に当てると鮮血で真っ赤に染まった。

それでも、「何や、それでシャンプーが泡立てへんのか」と笑って

ゴマ化したが、銭湯の人が駆け付けて、どうしてそんな怪我をした

のか尋ねたが、誰も口を開かなかった。すぐに病院に連れて行か

れて5針縫った。

 またある時は、近所の銭湯の男湯と女湯が船底で繋がっていて、

しかし、その幅は子供であれば辛うじて身を収めることができる程

度で、しかも2メートル位はそのまま前に進まなければ女湯には出

れないし、その間には湯が沸きだす湧出口もあって、そこを通り抜

ければ女湯の方へ出ることができると、実際に通り抜けたすごい奴

がいたのだ。その頃はえらそうに振舞っていた私は友だちに嗾けら

れて潜ってみたが、その途中で前にも後ろにも動けなくなった時の

ことを思うと怖ろしくて、それに、子供心にもそんなことをして死んで

しまったら恥ずかしいと思って止めた。しかし、それからは何度も湯

舟の底の管に挟まったまま身動きが取れないで悶え苦しむ夢を見

た。こんな風に、私の温泉好きは子供の頃の銭湯巡りで培われた

のだ。

 ところで、今では週に一度は通うなじみの温泉はリニューアル工

事のために一ヵ月間も休館することになった。私はほぼこの町周辺

の温泉施設を隈なく訪れたがその温泉を諦めて代わりに訪れるとこ

ろが見当たらなくて困っている。