「二元論」(9)

2021-05-18 07:22:26 | 「二元論」

         「二元論」


          (9)


 ハイデガーに《転回》(ケ―レ)を迫った《存在了解》についての

「二元論」も、つまり「現存在が存在を規定する」のか、それとも

「存在が現存在を規定する」のかという「二元論」も、決して一元

的な「二元論」ではなかった。そもそもは「現存在が存在を規定す

る」と考えて、近代社会をもたらした「存在=現前性=被制作性」

という存在概念を《転回》させ、「存在=生成=自然」という本来

的時間性に基づく存在概念を復権させようと企てたのだが、それは

同時に、神なき後の人間中心主義的(ヒューマニズム)文化を見直し、

人間とは世界内で生れ世界内で死んでいく《世界=内=存在》であ

るという考え方から《存在》優先へと移っていく。そして《転回》

後のハイデガーは「フォアゾクラティカー(Vorsokratiker)」と呼ばれ

るソクラテス以前の思索家たちに想い寄せて、形而上学(meta-phy-

sical)上の「二元論」である「事実存在」と「本質存在」の一元化を

思考する。

 ハイデガーによれば、「形而上学(meta-physics)」とは古代ギリ

シャで生まれ、その後西欧社会だけにしか拡がらなかった学問で

あって、だから「西洋哲学」という言葉は同語反復であるとまで言

うのですが、つまり、それ以外の哲学と呼ばれるものは形而上のこ

とはすべて神話に委ねて、あくまでも「形而下(physical)」の学問で

しかなく「形而上学」とは呼べないと言うのです。では「形而上学」

とは何かと言えば、それら形而下の存在全般を存在たらしめている

《存在》とは何かを問う学問で、古代ギリシャの哲学者アリストテ

レスの言葉から「第一哲学」と呼ばれ、そもそも形而上学はプラト

ンとアリストテレスから始まった。ところで「存在とは何か」と問

えば、当然のことながら「存在」は「事実としての存在」と「本質

としての存在」に二分化される。そして、遷り変わる事実存在より

も不変である本質存在こそが真理であるということになる。この形

而上学的思惟による「事実存在」と「本質存在」の二分化こそが様

々な二元論の根源に違いない。人間における「事実存在」とは「肉

体」であり、「本質存在」とは「精神」である。ハイデガーもまた

思想的「転回(ケ―レ)」を迫られた《存在了解》について、ここで

改めて《存在了解》について記述するのも今更の感は否めないが、

そもそも人間は了解しないままこの世界に投げ込まれ(被企投性)、

成長と共に理性が発達するとやがて意識(本質存在)は目の前の世界

(事実存在)を離れて(脱自態)、《存在》の視点から世界全体を想像し

て受け入れようとする(存在了解)。そして初期のハイデガーは、「

現存在が了解するときにのみ、存在はある」と言い、《存在》とは

現存在、つまり人間が存在しなければ取り上げられることのない概

念であって、《存在》は唯一の了解者である人間の思い(企投)に委ね

られる。わかり易く言えば、世界の外から世界を眺めることができる

人間だけが世界を構成尻ことができると考えた。しかし、一方で世界

に依存して実存している「事実存在」としての人間にとって、世界が

人間を規定することに疑いの余地はなく、それまでの《存在了解》の

考え方を改めざるを得なくなって、「存在と時間」の上巻を発刊した

後に思想的「転回(ケ―レ)」に迫られて下巻の著述を断念した。後期

のハイデガーは、「存在が了解のうちにあるという可能性は、現存在

の事実的実存を前提にし、現存在の事実的実存は自然の事実的現存を

前提にしている」(『論理学の形而上学的基礎――ライプニッツから出

発して――』199頁、『全集26巻』) と言われている。

 つまり、「人間が世界の外から世界を認識することができるのは、

人間がこの世界に実存しているからで、そして人間が実存できるのは

自然があるからだ」と言うのだ。

                          (つづく)


「二元論」(8)

2021-05-16 12:05:01 | 「二元論」

          「二元論」


           (8)


 世界を《存在》の視点から了解する「存在了解」の下で、初期の

ハイデガーは「現存在(人間)が存在を規定する」、つまり本来的覚

悟性に目覚めた人間は世界を作り変えることは認められると考えて

いた。そこで彼は、行き詰まりにきている近代社会を「存在=生成

=自然」という本来的な存在概念の下に作り変えようと企てた。し

かし、そこには大きな自己撞着が潜んでいた。「存在了解」とは意

識が自分自身を脱け出して(脱自態)、行き詰まりにきている世界を

《超越》して新しい世界を《企投》することに違いないが、作り変

えられるべき世界の内には依然としてこれまでの世界に実在する自

分自身が居る。つまり、本来的覚悟性の下で自分の意識が変わって、

そして世界を変えたとしても、はたして既存の世界内で近代化の恩

恵に浴して生活する自分を始めとする人間までも変えることができ

るだろうか?これは大きな文化革命には違いないが、それがハイデ

ガーをナチスへの共感へと向かわせたのかもしれない。しかし、時

代を遡って人間の本来性を取り戻そうとする文化革命のほとんどは

、つまり本来性に返って文化的なエントロピーの増大を取り戻そう

とするすべての試みは、ナチス然り、始原に帰ろうとする数多の原

理主義革命が悲惨な末路を辿ったことからも窺えるように大きな自

己矛盾を孕んでいる。

 木田元は「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとってお

こなうというのは、あきらかに自己撞着であろう。いわば近代主義

の克服をきわめて近代主義的な方策で果たそうというようなものだ

からである。」(木田元『ハイデガー』) こうしてハイデガーの企て

は《転回》を余儀なくされた。


                        (つづく)


「二元論」(7)

2021-05-16 10:45:06 | 「二元論」

           「二元論」

 

            (7) 

 

「時間は存在しない」は「二元論」(7)へ改編しました。

           *     *

 

 自著が世界的なベストセラーになったカルロ・ロヴェッリとい

う物理学者が続けて著した『時間は存在しない』(NHK出版)と

いう本を読んだ。そもそもはハイデガーの研究者として知られる

木田元の著書である文字通り『ハイデガー』の中に「存在とは時

間である」という定義に疑問を抱いたからで、カルロ・ロヴェッ

リもまたハイデガーの時間についてわずかではあるがふれている。

その引用は一部にとどめざるを得ないが、ハイデガーは、人間に

とっての「存在とは何か」という問題への関心から「内的な時間

意識を存在それ自体の地平と同一視するようになったのだが。」

と、ハイデガー哲学にとっては核心とも言えるテンポラリテ―ト

(時間性)についてどちらかと言うと批判的に書かかれていて共感

を覚えた。

 ハイデガーは「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は《ある》

」と言い、現存在とは人間のことなので、逆にすると、人間が存在

しなければ人間以外に存在について問う存在者など居ないから 存在

という概念すら《ない》ということになる。つまり、「存在とは何

か?」という問いはすぐれて人間だけが発する問いであって、その

答えは人間が了解できるものでなけれなれば意味がない。科学的真

理がどれほど「時間は存在しない」と結論しても、たとえば科学が

神を否定して科学による世界認識がどれほど拡がっても、その限界

の向こうには依然として無限に広がる神の領域が残されているのだ

。つまり「人間が存在するかぎりでのみ、神は《ある》」のだ。「

存在とは時間である」のか、それとも「時間は存在しない」のかは

、何れ存在しなくなる人間的視点による了解なのか、それとも時間

を超越した科学的視点からの認識なのかによって見え方は異なる。

時限的存在である人間にとっては目の前にある世界こそが全てであ

って、その時には生きていない世界の始まりや終わりの科学的真理

には関心はあったとしてもどうすることもできない。つまり、われ

われが問う《存在》とはわれわれの時間性に切り取られた現前する

《存在》であり、それは、神と科学が両立するように、形而上学的

思惟と科学的認識は重ならない。

 カルロ・ロヴェッリが研究する量子力学の分野は、断わって置き

ますが私はそれについてまったく無知なのですべて本からの引用で

すが、それが扱う最小の時間は「プランク時間」と呼ばれていて、

約10^-44秒、つまり1秒の1億分の一の10億分の一の10億分

の一の10億分の一の10億分の一の時間で、そこではもはや時間

は「量子化され」、「時間が連続的に継続するとは考えられず、不

連続だと考えるしかない。」そして、「言葉を変えれば、時間には

最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存

在しない。もっとも基本的な意味での『時』すら存在しないのだ。」

(カルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」NHK出版)

 では、量子力学の世界では「存在とは時間である」と言う定義は

成り立たないことになるのだろうか。たとえば、「人類」はその誕

生(?)以来ずっーと存在し続けているが、しかしそれぞれの「人間」

はわずか百年にも満たない寿命で世代が入れ替わっていく。つまり

、「人類」という大きな流れを見れば確かに「存在している」と言

えるかもしれないが、個々の「人間」に目をやればそれぞれはすぐ

に消滅する「限られた存在」でしかない。では、いずれ存在しなく

なる私は果たして「《真に》存在している」と言えるのだろうか?

私という存在は限られた時間だけしか存在できない《時間的》存在

ではないか。もしも、「カルロ・ロヴェッリ」と名乗る神が、地上

から離れること「プランク長」の反対の約10^33cm、つまり1

センチメートルの10億倍の10億倍の10億倍の100万倍以上

の遙か天上からわれわれ人類を時空を越えて覗き込んだら、たぶん

こう言うに違いない。

「人間が存在することは間違いないが、しかし、それぞれの人間は

瞬時に死滅して「連続的に継続するとは考えられず、不連続だと考

えるしかない」そして、「言葉を変えれば、人間は個人という最小

個体で存在する。その個人に出会わなければ、人間の概念すら知り

得ない。もっとも基本的な意味での『人間』すら認識できないのだ」

と。 つまり、人間(現存在)とはまさしく《時間》なのだ。

 ハイデガーはそもそも自著「存在と時間」の「序論」では上下二

巻に及ぶ詳しい梗概を記しておきながら、おそらくは本論であった

はずの下巻の出版をなぜ断念したのであろうか?以下はまったくの

私見であるが、彼は「現存在(人間)が存在を了解するときにのみ存

在は《ある》」と言い、それは、人間が「存在とは何であるか?」

を問わない限り存在という概念は存在しない。では、存在は人間の

了解に委ねられているとすれば、人間が存在をどう了解するかによ

って存在のあり方は変わり得る。ところで、人間は限られた時間の

中でしか存在できないが、しかし存在は無限に拡がっている。限ら

れた時間しか存在できない人間が無限の存在と向き合う時、人間が

関われるのは今此処の世界しかない。つまり《現存在》としての人

間にとって存在は自らの限られた時間の中だけしか関わることがで

きない。有限の時間しかない人間にとって無限である存在は人間の

時間性によって有限化(時間化)される。つまり、人間の時間性が存

在に転化する。そして「存在とは時間である」となる。

 そもそも人間は、何も知らずに産み落とされて(被企投性)、「世

界(存在)とは何であるか?」と自問し、やがて「世界(存在)を了解し

て」現存在としての自らの時間性に自分自身を《企投》する、《存

在了解》とはそういう意味だろう。しかし、いずれ自分自身の死を

認識した人間は自らの本来的時間性に立ち返って、それは「もはや

その先にはいかなる可能性も残されていない究極の可能性にまで先

駆けてそれに覚悟をさだめ、その上でおのれの過去を引き受けなお

し、現在の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時間化す

るのが本来的時間性であり」(木田元『ハイデガーの思想』)、そこで

「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづ

く新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成

し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権す

ることによって、明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人

間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。」「そして、

おそらくこれがハイデガーをナチスの文化革命に近づけたにちがいな

いのである」(同書より)。 私は、そもそもこの本(木田元『ハイデガー

の思想』)を読むまでは、ハイデガーについてかくも長きに亘って引っ張

られるとは思っていなかったが、しかし、今まさに現代のわれわれが抱

える環境問題を百年も前から予言していたことに驚かされた。

                          (つづく)

                      


まだまだ「時間は存在しない」

2021-05-11 10:29:16 | 「二元論」

        まだまだ「時間は存在しない」


 人間とは、何も知らずに産み落とされて(被企投性)、果たして「

存在とは何であるか?」と自問し、やがて「存在を了解して」現存

在としての自らの時間性に自分自身を《企投》する、《存在了解》

とはそういう意味だろう。しかし、いずれ自分自身の死を認識した

人間は自らの本来的時間性に立ち返って、それは「もはやその先に

はいかなる可能性も残されていない究極の可能性にまで先駆けてそ

れに覚悟をさだめ、その上でおのれの過去を引き受けなおし、現在

の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時間化するのが本

来的時間性であり」(木田元『ハイデガーの思想』)、そこで「ハイデ

ガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな

存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう

一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権することに

よって、明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主

義的文化をくつがえそうと企てていたのである。」「そして、おそら

くこれがハイデガーをナチスの文化革命に近づけたにちがいないであ

る」(同書より)。 私は、そもそもこの本(木田元『ハイデガーの思想

』)を読むまでは、ハイデガーについてかくも長きに亘って引っ張られ

るとは思っていなかったが、しかし、今まさに現代のわれわれが抱え

る環境問題を百年も前から予言していたことに驚かされた。


                         (つづく)