「あほリズム」
(832)
コロナ禍の下での「五輪ピック」開催の可否は、すでにどちらが経
済的かに移っている。
ところで、オリンピックっていったい何のためにするんだったっけ?
「あほリズム」
(832)
コロナ禍の下での「五輪ピック」開催の可否は、すでにどちらが経
済的かに移っている。
ところで、オリンピックっていったい何のためにするんだったっけ?
まだ「時間は存在しない」
ハイデガーはそもそも自著「存在と時間」の「序論」では上下二
巻に及ぶ詳しい梗概を記しておきながら、おそらくは本論であった
はずの下巻の出版をなぜ断念したのであろうか?以下はまったくの
私見であるが、彼は「現存在(人間)が存在を了解するときにのみ存
在は《ある》」と言い、つまり、人間が「存在とは何であるか?」
を問わない限り存在という概念は存在しない。では、存在は人間の
了了解に委ねられているとすれば、人間が存在をどう了解するかに
よって存在のあり方は変わり得る。ところで、人間は限られた時間
の中でしか存在できないが、しかし存在は無限に拡がっている。限
られた時間しか存在できない人間が無限の存在と向き合う時、人間
が関われるのは今此処の世界しかない。つまり《現存在》としての
人間にとって存在は自らの限られた時間の中だけしか関わることが
できない。有限の時間しかない人間にとって無限である存在は人間
の時間性によって有限化(時間化)される。つまり、人間の時間性が存
在に転化する。そして、「存在とは時間である」となる。
しかし、それは間違いであるとハイデガーは気付いた。
(つづく)
「リアルとバーチャル」下書き
リアルは再生回帰しながら進化する、バーチャルは自力では再生
できない。科学技術とはバーチャル技術であり、謂わばごまかしの
技術である。真実は虚像の中に紛れてる、否、虚像は真実のフリを
する。近代社会とはリアルを模倣した虚像(バーチャル)社会である。
従って近代社会は自力で再生進化しない。
しかし、そもそも芸術文化とはリアル(真実)の模倣から派生した
バーチャル文化にほかならない。古代ギリシャの哲学者プラトンは
真の世界を《イデア》と呼び、《イデア》の模倣でしかない芸術文
化を蔑んだ。
科学技術の進化は動物本能を退化させる。たとえばメガネによって
矯正された視力は元には戻らない、など。
「時間は存在しない」
自著が世界的なベストセラーになったカルロ・ロヴェッリとい
う物理学者が続けて著した『時間は存在しない』(NHK出版)と
いう本を読んだ。そもそもはハイデガーの研究者として知られる
木田元の著書である文字通り『ハイデガー』の中に「存在とは時
間である」という定義に疑問を抱いたからで、カルロ・ロヴェッ
リもまたハイデガーの時間についてわずかではあるがふれている。
その引用は一部にとどめざるを得ないが、ハイデガーは、人間に
とっての「存在とは何か」という問題への関心から「内的な時間
意識を存在それ自体の地平と同一視するようになったのだが。」
と、ハイデガー哲学にとっては核心とも言えるテンポラリテ―ト
(時間性)についてどちらかと言うと批判的に書かかれていて共感
を覚えた。
ハイデガーは「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は《ある》
」と言い、現存在とは人間のことなので、逆にすると、人間が存在
しなければ人間以外に存在について問う存在者など居ないから 存在
という概念すら《ない》ということになる。つまり、「存在とは何
か?」という問いはすぐれて人間だけが発する問いであって、その
答えは人間が了解できるものでなけれなれば意味がない。科学的真
理がどれほど「時間は存在しない」と結論しても、たとえば科学が
神を否定して科学による世界認識がどれほど拡がっても、その限界
の向こうには依然として無限に広がる神の領域が残されているのだ
。つまり「人間が存在するかぎりでのみ、神は《ある》」のだ。「
存在とは時間である」のか、それとも「時間は存在しない」のかは
、何れ存在しなくなる人間的視点による了解なのか、それとも時間
を超越した科学的視点からの認識なのかによって見え方は異なる。
時限的存在である人間にとっては目の前にある世界こそが全てであ
って、その時には生きていない世界の始まりや終わりの科学的真理
には関心はあったとしてもどうすることもできない。つまり、われ
われが問う《存在》とはわれわれの時間性に切り取られた現前する
《存在》であり、それは、神と科学が両立するように、形而上学的
思惟と科学的認識は重ならない。
カルロ・ロヴェッリが研究する量子力学の分野は、断わって置き
ますが私はそれについてまったく無知なのですべて本からの引用で
すが、それが扱う最小の時間は「プランク時間」と呼ばれていて、
約10^-44秒、つまり1秒の1億分の一の10億分の一の10億分
の一の10億分の一の10億分の一の時間で、そこではもはや時間
は「量子化され」、「時間が連続的に継続するとは考えられず、不
連続だと考えるしかない。」そして、「言葉を変えれば、時間には
最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存
在しない。もっとも基本的な意味での『時』すら存在しないのだ。」
(カルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」NHK出版)
では、量子力学の世界では「存在とは時間である」と言う定義は
成り立たないことになるのだろうか。たとえば、「人類」はその誕
生(?)以来ずっーと存在し続けているが、しかしそれぞれの「人間」
はわずか百年にも満たない寿命で世代が入れ替わっていく。つまり
、「人類」という大きな流れを見れば確かに「存在している」と言
えるかもしれないが、個々の「人間」に目をやればそれぞれはすぐ
に消滅する「限られた存在」でしかない。では、いずれ存在しなく
なる私は果たして「《真に》存在している」と言えるのだろうか?
私という存在は限られた時間だけしか存在できない《時間的》存在
ではないか。もしも、「カルロ・ロヴェッリ」と名乗る神が、地上
から離れること「プランク長」の反対の約10^33cm、つまり1
センチメートルの10億倍の10億倍の10億倍の100万倍以上
の遙か天上からわれわれ人類を時空を越えて覗き込んだら、たぶん
こう言うに違いない。
「人間が存在することは間違いないが、しかし、それぞれの人間は
瞬時に消滅して「連続的に継続するとは考えられず、不連続だと考
えるしかない」そして、「言葉を変えれば、人間は個人という最小
個体で存在する。その個人に出会わなければ、人間の概念すら知り
得ない。もっとも基本的な意味での『人間』すら認識できないのだ」
と。
つまり、人間(現存在)とはまさしく《時間》なのだ。
(つづく、か?)
「時間は存在しない」のつづきの続き
カルロ・ロヴェッリが研究する量子力学の分野は、断わっておき
ますが私はそれについてまったく無知なのですべて本からの引用で
すが、それが扱う最小の時間は「プランク時間」と呼ばれていて、
約10-44 秒、つまり1秒の1億分の一の10億分の一の10億分
の一の10億分の一の10億分の一の時間で、そこではもはや時間
は「量子化され」、「時間が連続的に継続するとは考えられず、不
連続だと考えるしかない。」そして、「言葉を変えれば、時間には
最小幅が存在する。その値に満たないところでは、時間の概念は存
在しない。もっとも基本的な意味での『時』すら存在しないのだ。」
(カルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」NHK出版)
では、ハイデガーの「存在と時間」に戻ると、量子力学の分野で
は「存在とは時間である」と言う定義は成り立たないことになる。
(つづく)