【2011年7月3日】 京都シネマ
ソ連(今はロシア)の巨匠、ニキータ・ミハルコフが『太陽に灼かれて』以来、16年ぶりに制作したという大作だが、どうにも話の展開が分かりにくい。
映画鑑賞者は、解説を見て作品を鑑賞、理解するのでなく、作品自体からメッセージをを受け取り、それを感じ取るのだから、制作者(監督や脚本家にその責任の大半がある)は、観るものにわかりやすく作品を提供しなければいけない。
奇をてらって、ストーリ-展開をややこしくしたり、突然シーンが変わったりするのは、それが必然的で前後関係で理解できるものであれば許されるが、監督の独りよがりでは、観客はいい迷惑だ。
スターリンがのっけに出てきて、なにやら語るが、登場人物の関係が全然分からないまま、話があちこちに飛び回りながら進む。スターリンはそれっきりで、あとはどうなるのやら。
レーニンの死後、『権力を握ったスターリンが自分の意にそぐわない政敵を大粛正した』という歴史的事実を知っていても、それがこの物語とどう結びついている何も分からない。
対ドイツ戦はどこの戦場で、どういう形勢のもとで戦われたものを、この映画の舞台にしているのか、主人公の元ソ連の英雄のコトフは何でスターリンに粛正の対象にされたのか、分からないままである。
物語の進行が説明的になったり、配役に、話の展開とは無関係な説明的な台詞を語らせるのもどうかと思うが、作品は1つの完結した世界で、その物語の理解に必要な最小限の情報は、その中に盛り込まれていなければならない。
映画を観ていて、話の展開や人間関係が分からないということほど、鑑賞者にとって不愉快なことはない。
で、結局この映画のいわんとしていることは何なのか! 部分(エピソード)の寄せ集めで、想像はできるが、作品自体からそのことが伝わってこない。だから、感動がない。
『戦火のナージャ』-公式サイト