【2009年8月1日】 京都シネマ
実に洒落た映画だ。
しばらくは、冒頭のカットの意味がわからなかった。あのシーンはどこに繋がって、どう落ちが付くのか。
一対のダイヤモンドの行き来があって、終わり近くになって、「あーそうなのか!」と。香港映画「ラブソング」の最後のシーンを見るような爽やかな感触に包まれた。
・・・差し出された問題の重大さと、最後のシーンの壮絶さにもかかわらず。
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いつも何とかならないものかと思う。
生産力は、ひと昔前に比べ桁違いに高まったというのに、商品は市場に溢れかえり、様々な情報が行き交い、世界の今の様子が即座に分かるというのに、人はあくせく休む間もなく働き続け、それなのに僅かな賃金しか得られず、最低限の生活すら保障されかねない現実がある。
経済学の課題は、富の生産とその分配を巡る問題の解決にある。
日本だけ見たら、生産力は大雑把にみても明治の時代の数倍に達しているだろうから総労働時間は減少し、生活もより豊かになってしかるべきである。
最近の若年労働人口の減少を加味しても、それをカバーしうる生産力は持っている。
なのに、工場は海外に移転し、仕事を奪われ、逆に安い外国の賃金水準に単価を合わせられ、生活ができない賃金までに下げられている。
小さな政府が叫ばれ、財政基盤の悪化する中、地方自治体・公務員の世界にまで非正規雇用が蔓延し、公共サービスが後退する中、誰もがまともな仕事、まともな生活がしづらくなっている。
若い世代の将来もお先真っ暗な様相を示しているが、年寄りの現実も悲惨だ。
ただただ年金に頼らざるをえない身で、身体的能力は衰えていき、今更新しい仕事も無い中、医療費はかかる、保険料は上がる生活は不便になるでは、どうしたらいいのか。その年金も最低限の生活をカバーするものでなかったら・・・。
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映画の中で、滞納分を納められないならと、官吏が主人・エミルの蔵書をもっていこうとする。そこへ、妻のへディが割り込んで、ダイヤのイヤリングを差し出す。夫の愛車を差し出す前には絶対に手放さないと言い張っていたそのイヤリングを。
何も悪いことをしていない老夫婦の生活を、生活するに足りる年金をよこさない政府が、どうしてぶちこわす権利があるというのか!
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EUに加盟した、かつての共産主義国であるハンガリーは、他の先進国にレベルを揃えさせられるため、短期間の内に無理な政策を世界銀行やIMFやらに強いられた。国営企業の民営化や市場経済の導入、農産物の自由化、公務員の削減、等である。
そのうちのいくつかはこの間、日本でも行われてきたことである。
選挙が近づいてきた。ようやくの解散である。
今は、政権が交代することが当然のこと-それが至上命令で-それさえすればすべて問題が解決するような、問題の本質が背後に隠れてしまったような状況である。
自民党も民主党も、この間何をしてきたかは頬っかむりして、やれ何々を無料化するだの、支援金を出すだの都合の良いことを並べている。
献金等の企業依存体質はやめるのか、年金の問題ははどうするのか、後期高齢者医療はどうするのか、派遣や非正規労働の問題はどうするか、消費税は廃止しないのか、まともな論議をしようとしない。
それにしても、ハンガリーは魅力的な国だ。あの小さな国のどこにあのパワーがあるのだろうか。また日本が小さく見える。
この映画は、今のばかばかしい現実に、清涼剤を与えてくれた
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