プッチーニのオペラの舞台は非常に国際色豊かで海外が多い。ヨーロッパの中ならまだ外国といっても同じ文化圏の中なので違和感はないが、東洋となるとアジアでオペラ?という感じになる。でも、思い浮かべてみると「蝶々夫人」は日本をぶたいにしているし、なんとこの「トゥーラン・ドット」は中国の明の時代が舞台だったのだ。この映画を観て、そのことを初めて知ったし、それで北京公演に力を入れる意味が理解できた。
制作過程を描く記録映画みたいなものだから、曲は一部しか歌われないし物語のストーリもわからない。以前、イタリア映画(1982年、フランコ・ゼッフィレッリ監督、メトロポリタン歌劇場管弦楽団演奏)で「椿姫」をみて(聴いて)CDから耳だけで聞くのと違って映像も交えてオペラを観るというのもいいなと思って、今回もそんな期待をもって足を運んだのだが当てが外れた。とは言っても「椿姫」と違い、「トゥーラン・ドット」は曲自体、通して聴いて無いどころか、聴くのは例のあの有名な一部分だけである。だから逆に、鑑賞しやすい映画で全体を通して聴いてみたいという期待はあったのだが。
しかし、別の角度でこの映画のおもしろさを見つけた。ふつう我々が生で観たり聴いたりするのは本番だけである。リハーサルやそれに先立つ何ヶ月にもおよぶ準備のようす、打ち合わせの過程など知る由もない。ズービン・メータがチャン・イーモウを強引に誘ったまでは良かったが、その後の調整が大変である。大体、中国にあんな大規模なスケールでオペラを上演できる専用の施設・オペラハウスなど無い。音響効果や照明でその道のプロとチャン・イーモウの意見が合わない。公演期間、主な役どころは3人交代で受け持つのだそうだが、それぞれの個性が違う。「不思議の国のアリス」のハートの女王みたいな立派な容姿のトゥーラン・ドット姫役のひとりなど、ほんとにこんな人がお姫様役をやっていいのと思っていたが、その歌手が「あんな冠つけるのイヤ!」とごねるシーンなど、よくあることなんだなと思うと笑える。
以前、ミラノ・スカラ座のリッカルド・ムーティーが「舞台でプロレスラーが取っ組み合いをするようなオペラはごめんだ!」と宣言して、若い美貌のソリストを抜擢していたが、ついそのことを思い出してしまった。
制作過程を描く記録映画みたいなものだから、曲は一部しか歌われないし物語のストーリもわからない。以前、イタリア映画(1982年、フランコ・ゼッフィレッリ監督、メトロポリタン歌劇場管弦楽団演奏)で「椿姫」をみて(聴いて)CDから耳だけで聞くのと違って映像も交えてオペラを観るというのもいいなと思って、今回もそんな期待をもって足を運んだのだが当てが外れた。とは言っても「椿姫」と違い、「トゥーラン・ドット」は曲自体、通して聴いて無いどころか、聴くのは例のあの有名な一部分だけである。だから逆に、鑑賞しやすい映画で全体を通して聴いてみたいという期待はあったのだが。
しかし、別の角度でこの映画のおもしろさを見つけた。ふつう我々が生で観たり聴いたりするのは本番だけである。リハーサルやそれに先立つ何ヶ月にもおよぶ準備のようす、打ち合わせの過程など知る由もない。ズービン・メータがチャン・イーモウを強引に誘ったまでは良かったが、その後の調整が大変である。大体、中国にあんな大規模なスケールでオペラを上演できる専用の施設・オペラハウスなど無い。音響効果や照明でその道のプロとチャン・イーモウの意見が合わない。公演期間、主な役どころは3人交代で受け持つのだそうだが、それぞれの個性が違う。「不思議の国のアリス」のハートの女王みたいな立派な容姿のトゥーラン・ドット姫役のひとりなど、ほんとにこんな人がお姫様役をやっていいのと思っていたが、その歌手が「あんな冠つけるのイヤ!」とごねるシーンなど、よくあることなんだなと思うと笑える。
以前、ミラノ・スカラ座のリッカルド・ムーティーが「舞台でプロレスラーが取っ組み合いをするようなオペラはごめんだ!」と宣言して、若い美貌のソリストを抜擢していたが、ついそのことを思い出してしまった。