【2012年9月12日】 京都シネマ
私もずっと以前は、「凶悪犯人を弁護するなんて人間の道理に反している」と思っていたことがあった。
確かに、凶悪な犯行が検察の言う通りの状況で行なわれたのであれば、許される余地のないものだと思う。
自分たちの判断は、報道機関の伝える内容に圧倒的に支配される。特にこうした凶悪犯罪の場合、《犯人憎し》の感情が先に立ち、客観的で冷静な判断能力を奪われてしまう。
仮に自分の子供が残虐に殺されたら、その犯人を死刑にしたいという感情は当然残る。妻が残虐に殺されたら、その殺人犯を殺したいと思うに違いない。
それでも《死刑にする》かどうかは別問題である。死刑は確かに国家の名による《殺人》である。
『目には目を、歯には歯を』という『ハンムラビ法典』の言葉*註1 を思い起こすが、同害報復ではいかにも《野蛮》のそしりを免れない。
イスラエルとパレスティナの報復合戦が終わりのない戦争を続けているのを見るまでもなく、何も問題が解決しないことは明らかである。(遺族の心が休まるのだろうか-むなしさだけが残るのではないか。)
*註1:『ハンムラビ法典』の記述【旧約聖書にも同様の記述があるそうで】は、上の様な俗な解釈でなく受けた被害以上の『過剰な報復を戒める』意図を記したものといわれている。
安田弁護士が『殺人犯』を弁護するにあたって、大きく二つのスタンスがあると思う。
一つ目は、《本当に殺人を犯したか疑わしい》と思って、検察の証拠をしらみつぶしに検証し、真実をつかもうとする姿勢。
もうひとつは、犯行は事実だが、その他の状況や経緯を検証し、《死刑という極刑を回避出来ないか》あるいは《量刑をより軽くできないか》という姿勢である。
『死刑廃止』という主張と、二つ目の立場は別のものと、安田弁護士は考えている。だから、政治スローガンを法廷の場に持ち込んで混乱させることはしない。しかし、誤解は付きまとう。
映画を見ればわかるように、『和歌山カレー事件』の裁判でも、検察の証拠として挙げているもの《ねつ造》の色彩が濃い。映画『それでも僕は、やっていない』のシーンを思い出す。映画の方は事実無根の罪をきせられたが、『カレー事件』の真相はわからない。ただ、解決を急ぐあまり検察が勝手な証拠をでっち上げた可能性がある。
『オーム真理教』の裁判での麻原彰晃の態度やそれを巡っての姿勢は良く分からない。ただ、あれだけの事件だから、麻原を弁護しようとする人への世間の風当たりは当然強い。
安田自身が罠にはめられ、冤罪事件に巻き込まれ、『オーム真理教』裁判の弁護士を外され、自身の弁護士資格も奪われようとする。
しかし負けない。1か月に1回帰るかどうかという自宅は、学生マンションの一室の様である。それでも死刑被告人の弁護士を続ける。
安田弁護士の、あくまで一貫したスタンスは、
『事実を出して初めて本当の反省と贖罪が生まれる。どうしたら同じことを繰り返さずに済むのか、それには、まず真実を究明しなければならない。』
という彼の言葉に集約される。
『死刑弁護人』-公式サイト