【2013年9月5日】 京都シネマ
実は、先日の日曜日にも映画館まで行ったのだが、上映30分前の到着にもかかわらず、朝一番の回も次の昼の回も満席で、同時に見ようと思っていた《もう一つの方》も満席で見ることができず、やむなく何も見ず帰ってきたのだが、当日は【毎月1日の映画の日】で日曜日が重なったからだと、納得してあきらめた。しかし、今日は平日にもかかわらず、1回目の回は程なく満席となっていた。上映時間の関係であらかじめ、もう1つの『クロワッサンで朝食を』を先にして、『夏の終り』は第2回目上映にしたのだが、それでも、その入場の順番は最後の方だった。(チケット購入順に入場するようになっている)
今日もこんなに多いのはどうした訳か-《前評判がいいのか》、《何に惹かれてくるのか》-不思議に思ったが、見終わった後はさらに、その疑問が大きくなった。
瀬戸内寂聴の原作は読んでいない。他にも原作を読んでいない人はたくさんいるはずだ。映画を作る人は、原作を読んでいることを前提に作っているつもりはないことは、ある意味当然といえる。
しかし実際はそうなっていない。監督の思い込み、独りよがりが多いのだ。寂聴自身も、『この映画は今までのものと比べて一番自分の感情が表現されいる』みたいなことを語っているが、自分の事だから《事の推移》は最初からわかっているだろう。しかも、制作者をほめる立場にある。
しかし、第三者にはそういうわけにはいかない。
この映画、時間の推移も、話の展開も全くちぐはぐなのだ。1つ1つのシーンが繋がっていないで、カットがてんでんバラバラに並べられていて、話の前後関係も、登場人別の関係も、回想シーンか、現在進行中の話なのかも最後までつかめない。
単に《情緒的なシーン》の寄せ集めで、組み合わせ前のばらばらのジグソーパズルを見せられたようなものだ。
元々、あまり期待してはいなかったが、《何がどうなって、何を言いたいのか》-訳のわからない感情だけが残った。
この映画を見に来た人は、《何を期待して》やって来て、見終わって後《どんな感動》をひめて、あるいは《どんな共感》を得て帰ったのだろうか。私には否定的な印象しか持ち合わせていない。
『夏の終り』-公式サイト