【 2015年7月21日 】 京都シネマ
タイトルにもあるように、実際に起こった事件を題材にしている。事件の起きた当時のことをうっすら覚えているが、「犯人は熱狂的なチャップリンの信奉者」と伝えられるくらいで、その後に詳しい報道もなく、ただ《あの世に行ってもうかうかしていられない物騒な世の中になったもんだ。》くらいの印象を持ったのを覚えている。
個人的には、わが家族はチャップリンからは、多くの『喜び』と『人生の糧』を受けとった。
最初に出会った作品は何だったんだろうか。『街の灯』か『モダンタイムス』だったか。
それまでも、テレビの画面で断片的に見ていたりしていたと思うが、《一般的なチャップリンの扱い方》は《ドタバタ喜劇》のそれと変わらぬ印象を与えるものだった。バスター・キートンと1セットで紹介され、日本では益田喜頓(マスダ・キートン)やそのあとにつづく花菱アチャコらの喜劇役者・コメディアンと同列に置かれたように見えていた。
しかし上の映画を見てから、チャップリンに対する思いはがらりと変わった。『モダンタイムス』は、資本主義の行く末を見通したような、機械に人間が使われ、資本家の利益と効率性を最優先する非人間的な機械文明に対する痛烈な批判が読み取れた。映画を見た当時の日本のように、今ほど資本主義がまだ充分に発展しきっていない状況下で、過労死や精神に支障をきたす働き方を想像するシーンが描かれていることに驚いた。
『街の灯』や『ライムライト』では、弱い者に対する温かいまなざしや、人間が一番大切にしなければならない『思いやりの心』を感じる。
一方、『独裁者』や『殺人狂時代』では、《一人を殺せば犯罪者であるが、百万人を殺せば英雄である》という名文句と共に、ヒトラーをはじめとする《独裁政治》と《戦争犯罪人》を徹底的に糾弾するとともに、映像を通して平和を世界に訴えた。
『キッド』や『黄金狂時代』も忘れがたき作品だ。
ところがこの映画では、上の映画の《断片》は出てくるのだが、肝心の【チャップリンの精神】がほとんど描写されていない。だから、この映画だけを見ている限り、二人組の男がどういういきさつで《チャップリンに何を期待》し、また《チャップリンから何が贈られたのか》、その関連性がよく理解できない。だから、共感するものも少ない。もっとわかりやすく言えば、この事件そのものが《お粗末》であり、それを映画にすること自体が、そもそも無理なように感じた。
『チャップリンからの贈りもの』-公式サイト