【2008年5月17日】 京都みなみ会館
人はそれぞれの長所の他にさまざまな短所や欠陥を持ち合わせている。明らかなハンディがある機能障害だと「障害者」というレッテルを貼り、一般と区別するのが世の常である。やむを得ない面もあるのかもしれないが、度が過ぎると当人にとって不愉快であるに違いない。
常識と非常識が相対的で、時の基準、あるいは個人の価値基準によっても大きく変わるように、自分が欠点だと思っていたことが、そんな対して悩むことでなかったり、逆に自分には短所が無いと思い込んでいる人が実はとんでもない性格欠陥者だったりすることはよくある。
「五体満足」、「容姿端麗」にこしたことはないが、外見は普通でも、それ以外の欠陥を持った人間が、当たり前の顔をして他人を蔑視の目線で見下すことの多いことか。
『ありのままの自分じゃダメなの?』 という問いが、この映画の作者からメッセージである。
確かに、豚の鼻では醜いと映るに違いない。だから両親はその事実を必死で隠そうとするし、葬式までして娘をなきものとして、世間の目を欺こうとする。
娘が成長すると、呪いを解いてくれるフィアンセ探しに狂奔する。しかし相手は一目、顔を見るなりみな逃げてしまう。その努力する様子は、それはそれで親としての涙ぐましいものと思える。
ギャンブルで資産を食い潰す一人は別だった。しかし、青年の家筋は、呪いを解くにたる要件としての<名家としての資格>に欠ける事がわかっていたので結婚を辞退する。
で、少女は豚の鼻をマフラーで覆い、街に飛び出す。あわてる両親!
でも、少女には「ありのままの自分じゃいけないの?」という姿勢が芽生えていた。
呪いは解けた-しかもそれは自分を愛してくれる相手の出現でなく、自分の気持ちの持ち方の変化で!
なんか、他愛ない子供だましのお伽話のようだが、たんなる寓話に終わらない大切なものを感じさせてくれる映画だった。
ピネロピは、豚の鼻以外は-豚の鼻を持っていても、充分かわいらしい容姿だった。これがこの映画の落とし穴かもしれない。
「ペネロピ」-公式サイト