【2012年4月29日】 京都シネマ
冒頭、いきなり夫婦の別れ話から始まる。
言い分を聞くと、夫の方に《分がある》ように思える。
妻は、『国外に逃れようというのに、夫がついて来ないから別れる。』という。夫は、『介護を必要とする父親を置いて、国外に逃れるわけにはいかない。』という。
夫の方に分があると思うのは、映画の中で《国外に逃れなければならないような緊迫した状況》が一切描かれていないことにある。監督はイランの国内事情など全く知らない外国人がこの映画を見ることなど想像していなかったのか。
だから、妻は身勝手なことを言う、わがままな女性という先入観を持つ。家庭裁判所の判事(調停員?)が『離婚するに足りる、重大な問題はない』と妻の訴えを却下するのは当然と思える。
学校に通う一人娘とアルツハイマーを患った父を残して、妻が家を出て行ってしまった後は、父親を看る家政婦(ヘルパー)を雇わなければならない。介護は家族の役割となっているイランでは(日本でもそうであったし、今もそういう部分が多く残る)、当然介護保険などなく、個人で雇わねばならない。
女性が男性のシモの世話などするのは宗教上の理由から御法度だから、そのような事態に直面したときにとった家政婦のとった女性の行動がおかしいのだが、社会通念の異なる国情では考えられないことが起こる。
家政婦の娘を連れながら仕事に来たり、仕事中に一時外出を-しかもアルツハイマーのおじいちゃんの手をベッドに縛り付けて-したり、日本では考えられないことをする。これが事件につながっていき、話の展開が二転三転していくのだが、『別離』というテーマとは外れた周辺的な問題にそれて、何をこの映画で言いたいのか、本質が見えてこない。
妻シミンを演じるレイラ・ハタミというイラン人の女優、ポスターではきつそうな印象を受けたが、スクリーンの中の表情は若い頃のイングリット・バークマンを彷彿させる。
『別離』-オフィシャルサイト