【2013年5月19日】 京都シネマ
冤罪事件は、どこの国でもどの時代でもあるが、個々の事例を附きつけられると憤懣やる方ない気持ちになる。日常生活の中では《自分には関係ない世界の出来事だ》くらいに思っているのが、そもそもの間違いなのかもしれない。
アフリカのサバンナでヌーの大群がライオンに襲われ逃げ惑う光景をテレビなどで見ることがある。
そのうちの群れから引き離された1頭がライオンの餌食になると、それまでの興奮状態が納まり、何事も無かったかのように-近くにライオンがいるにもかかわらず-平然と草を食べ始める。
そんな光景を、つい思い浮かべてしまうが、どうして自分より小さいライオンに集団で立ち向かわないのかと思ったりする。自分に危害が及ばないと思えば、もう関係ない出来事であるかのようだ。
確かに自分にそんな不運が訪れる確率は何十分の一、いや何万分の一かもしれない。だから、起こるかおこらないわ分からない事に振り回され、日常生活が乱される方が嫌だと感じて、知っていて知らぬふりをするのかもしれない。
あるいは、自分が普段から気を付けていれば、そんなバカなことに巻き込まれることは無いと思ったりする。それが、そもそもの間違いなのだ。
この事件でも、犯人にでっち上げられた奥西さんには《弱み》があった。一方、検察は早く犯人を挙げ、被害にあった人たちの気持ちに報いたいと思う。しかしそのやり方が、むちゃくちゃだ。
捜査過程や自白の内容、証拠品の鑑定などつぶさに観察すれば、明らかに無罪となるケースでも、《司法の権威》(いや国家権力の権威)を守るため、ウソの上塗りをする。
そのために、かけがえのない『人の一生』が台無しにされる。しかしこの映画をみて、もう一方に、別のたった一人の人生を救おうとして、自分の生涯をかけている人が多数存在するというのは、驚きであり感動である。
この記事は、書きかけで、しばらく放っておいたものを再度編集し、2014/03/27にアップした。
『約束』-公式サイト