田舎人の徒然日記

退職後を故郷で暮す1948年式男の書き散らし

老人と呼ばれるのは嫌ですか

2020-12-17 | 日々の暮し
老人クラブの名称だが「老人」の文字を入れていないものが多い。
「老人」という語が敬遠されるというのが理由だ。
一見して何の会か分からないので困る。


   大掃除をしていたら出てきた掛け軸の絵

何故、「老人」という語が敬遠されるのか。
老人でなければ自分を何と思っているのだろう。
高齢者、後期高齢者か。
これなど単なる行政用語で味もそっけもない。
ヘミングウェイの小説「高齢者と海」なんて変だろう。
やはり「老人と海」でなければならない。

時代小説には「大老」「老中」「家老」が登場する。
秀吉が死ぬ前に幼子秀頼の行末を頼んだのは家康を始めとする「5大老」だ。
江戸も末期、桜田門外で殺されたのは井伊大老だった。
藩を傾けるのは出来の悪い「家老」と相場が決まっている。
維新の後には元老院というのもありましたな。
「老」は高い地位を示すものだった。
今でも村では「参考までに長老の意見を聞いておこう」などと言っている。
過去の出来事を知っている、経験があるからだ。
だからボクは老人と呼ばれるのに抵抗がない。


   
老人が自分を老人と呼ばれるのが嫌になったのは平均寿命の延びに由来するのではないか。
例えば、全国老人クラブ連合会のホームページを見ると、その設立は昭和37(1988)年4月となっている。
その当時の日本人の平均寿命は概ね男75歳、女80歳だ。
それが昨年では男81歳、女87歳にまで延びた。

平均寿命が延びるとともに社会も変化した。
定年延長、年金開始年齢の引き上げや切り下げ、格差拡大などによる労働の継続、体力の向上等々。
自分が老人と自覚する機会が減り現役感を抱くようになる。
だから「老人」と呼ばれると違和感を抱く。
その一方で老人ホーム、特養、ケアなどというものが意識に浮かぶがまだまだ先のことと思いたい。
「老人」であることが怖く不安にり、そういう語を忘れたい、距離のある場所にいたいと思うようになる。
これらの結果、「老人」という言葉は好きでない、避けたいとなる。

だが誰もが必ず知力体力の終着駅にたどりつく。
ならば、老人であることを自認し堂々とそれに応じた仕事の仕方、生活をすれば気楽だと思うのだが。
老人故に村の共同作業では楽をさせてもらっている。
強がりは疲れる。
「敬老の日」が形骸化しているのは不満だが。

ボクは老人です。