←色絵花鳥文蓋付大鉢(1720-1750年)
1659年10月15日にオランダ東インド会社によって正式な磁器輸出が始まってから350年目を記念して、パリを中心にヨーロッパで収集された碓井コレクションの優品展が東京目黒の東京都庭園美術館で開かれてます。この展覧会の招待状をいただいたので、見に行ってきました。
(写真左 染付漆装飾花束菊文蓋付大壷(1690-1730年)、右 色絵鯉滝登り牡丹獅子文蓋付角瓶 1720-1740年))
中国磁器の模倣に始まった輸出磁器が、日本独自の美意識と技術の発展により、本家中国を凌駕するまでに成熟して行った過程が、数々の作品で読み取れた。
輸出向けの特徴をもつ作品や、渡欧後に金鍍金を施したブロンズで装飾されたひと味違った古伊万里など、珍しく貴重な作品も数々展示されており、当時のヨーロッパの王侯貴族の磁器に対するあこがれや嗜好を知るとともに、明と清の戦乱の影響で衰退・途絶えた中国磁器に代わって、ヨーロッパへの磁器供給の主役となった日本磁器の技術力の高さがうかがえた。
また、碓井コレクションはヨーロッパで収集されたもので、日本で収集・展示されている「古伊万里」と違って、美しさもさることながら、大きなサイズの絢爛豪華なものが多く、見ていてあきなかった。
(写真左 染付牡丹文蓋付大壷大瓶(1690-1730年) 右 色絵楼閣山水牡丹菊文六角蓋付大壺・六角大瓶 (1700~30年)
(写真左 色絵牡丹菊文手付水注(1710~50年) 中 色絵鶉菊文皿 (1680~90年) 右 色絵牡丹文手付坏 (1670~80年))
有田、三川内、波佐見(長崎県)などで焼かれた磁器が江戸時代に伊万里港から出され、その名にちなんで「伊万里」と呼ばれているが、元禄時代の終わり(~1704)頃以降は、中国磁器輸出が復活したこともあり、日本からの輸出は衰退し、国内向けが主力となった。それまでの作品を「古伊万里」と呼ばれているとのこと。青の世界から色の世界、柿右衛門様式、金欄手(きんらんで)様式がある。
一方、「有田焼」と「伊万里焼」は同義と考えられているが、、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるそうです。
明治時代以降、やきものを産地名で呼ぶことが一般的になり、有田で焼かれた磁器を「有田焼」、伊万里市で焼かれた磁器を「伊万里焼」と呼び分けるようになったとか。今日では有田焼、伊万里焼とも原料、成形、加飾等技法が同じなので、「伊万里・有田焼」と統一した名称で呼んでいるようです。