小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

馬酔木の花咲く

2010-03-04 | 野の草花
2月に本来の冬の寒さが続いたことで、春を待ち遠しく感じていたところでしたが、やはり今冬も暖冬だったとか、平均気温が0.?度、高かったそうです。(ラジオからの聞き覚えですが)
アセビの花があちこちで咲き出しました。この花は枝葉に有毒な成分をもっていて、馬などの家畜が食べると酔っぱらったように足がしびれるところから「足しびれ」から「アシビ」にそして「アセビ」と呼ばれるようになったそうです。漢字で「馬酔木」と書くのはここから由来しているのでしょう。昔、山道を歩く時、馬酔木の枝を腰に挿して歩くと狼などに襲われないという昔の人の知恵を、本で読んだことがあります。
アセビは、私が子供の頃、春先に野山に分け入ると、まだ芽も吹かない、色のない野山にひっそりと咲いていたように思います。この地味な花は、昔から今と変わらぬ姿で、人の生活と関わり深いところで咲いていたのでしょう。
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つるべ落としの秋の夕暮れ

2009-11-01 | 野の草花
忙しがって週に2、3回ほどしか歩かない私の「時々ウォーキング」コースに、コスモス畑があります。
一昨日、コスモスの様子が気になって、時刻は4時半を回っていたのですが、思い切って出かけることにしました。犬の散歩帰りに出会った近所の人からは、「暗くなるので気をつけて」と声をかけられ、「ありがとう! 夜目、遠目ってこともあるのでね・・・」と挨拶して、いつもの散歩50分コースを少し速足で歩き出しました。

西の空は夕暮れせまり、ほとんど裸木となった木がシルエットとなって映し出されています。


東の空はと言えば、うっすらと月が浮かび、明るさの残る天はまだ高く見えました。「コスモスの様子を見に行くのには間に合いそう」と、先を急ぎます。


公園では、ホームレス猫たちも、まだ歓談中。ねぐらに帰る前になにか情報交換でもしているのでしょうか。急ぐ様子もない猫たちが、日暮れを少し遅いものにしているようにも見えます。


カヤトの水辺に落ちる月がくっきりと見えはじめました。秋の夕暮れがこんなにも速く迫ってくるものかと思います。


ウォーキングの途中で抜ける公園は、すでに人影も少なく、落ち葉のかかるベンチはなんとなく寂しさが漂います。急ごう!
なんとかセーフでたどり着いたコスモス畑には、畑の一画にコスモスが取り残されたようにありました。陽はとっぷりと暮れ、それでも天を仰ぐコスモスの花に伸び行く秋の空の高さを感じた一瞬でした。

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アカツメクサ(赤詰草)

2009-05-11 | 野の草花
この季節、庭の草花がぐんぐんと伸びて、一年の中で庭仕事がもっとも忙しい季節を迎えていますが、野も花の賑わいを見せています。
我家の前の空き地には今、アカツメクサの花園が広がっています。ここは季節が巡るとセイタカアワダチソウに、そしてススキ野に変わります。庭は狭くとも、この借景のおかげで、居間の窓は、溢れるほどの緑に覆われます。
シロツメクサ(クローバー)の花で首飾りや花冠を編んだ遠い昔、シロツメクサの花の香りは、今でも淡い思い出として、鼻のあたりをくすぐります。
一方、アカツメクサですが、こちらはシロツメクサのように花径が長くなく、葉の上がすぐ花になってしまうために、リンクを編むことはできません。子供の頃、アカツメクサを見る度に、シロツメクサのように、この花でも編んで見たいと思い、残念に思ったものでした。
今では、手に取ることもなく、その愛らしい花を眺めています。
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タンポポの旅たち

2009-04-24 | 野の草花
春がまだ浅い頃は、日溜りに肩を寄せ合うように咲いていたタンポポの花が、あっという間に、黄色い花を野辺のあちこちに散らせ、その様は園庭で春の陽を浴びて遊ぶ幼稚園児のように見えます。
今朝、出会ったタンポポは、もう旅立ちの準備が整っているかのように、ふっと吹けば一斉に飛び立ちそうでした。完璧なほどの球形をした綿毛は、最後の一瞬まで仲間と一緒にいられるように、そして、どこまでもどこまでも飛んでいけるように、その計算され尽くした綿毛のすがたに、たんぽぽの深い愛を感じました。
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晩秋のカヤトの原

2008-11-22 | 野の草花
連休の初日は、抜けるような秋の空が広がり、どこも紅葉シーズン真っ盛りとなりました。我家の近所のイチョウや楓も鮮やかに色づき、冬を前に、木々が葉を落とす前の賑やかさを思いっきり演出しているかのようです。
その賑やかさに圧倒されてしまいそうですが、すっかり枯葉色になったカヤトの原には、秋の陽を浴びたネコジャラシが、秋空に姿を透かして金色に輝いていました。
真っ青な空に映える紅葉のコントラストとはまた違って、カヤトの原にやさしい秋の陽が降りそそいでいました。
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秋の風に揺れる ノコンギク

2008-10-26 | 野の草花
窓辺まで届いていた虫の音がいつの間にか静かになり、忙しがって少しブログから離れている間に、木々は秋の色に染まり、秋がぐっと深まってきたことを感じるようになりました。
久しぶりに歩いた野のあぜ道に、もう花の盛りを過ぎたノコンギクがひっそりと咲いていました。
野菊の仲間で私のわかるのは、この薄紫色のノコンギクと、もう少し色濃く咲くヨメナでしょうか。
 「遠い山から吹いてくる こさむい風にゆれながら 気高く清く におう花 
          きれいな野菊 うすむらさきよ」
と、この懐かしい野菊の歌は、やはりヨメナではなく、ノコンギクではないかと、秋の風に静かに揺れて咲くノコンギクを見て思いました。
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数珠玉の想いで

2008-10-06 | 野の草花
秋の野道で、この数珠玉に出合うと「あっ、数珠玉!」とつい手が出てしまうのは、子供の頃の遠い記憶が蘇るからでしょうか。黒くつやつやと熟した玉になるのを待ちきれずにまだ青い玉も取ってしまった子供の頃。一粒一粒割れないように繋いで作った首飾り、母から余り切れをもらって作ったお手玉、どれも女の子の宝物だったように思います。
それにしても、私はこのお手玉遊びがとっても苦手でした。宙にお手玉を投げた瞬間に次のお手玉を握って、それも宙へと。私の場合は、投げたお手玉はいつも手元に戻らず、あっちこっち落下して、いつも悲惨な結果でした。それでもいつも手元にあった数珠玉のお手玉。懐かしくもあり、それでいて、またちょっと可哀想なあの頃を想いだしてしまいました。
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彼岸花

2008-09-30 | 野の草花
天候が不順であっても、必ずお彼岸頃には咲き出すと言われている彼岸花。少し時期を逸してしまいましたが、近くの田んぼまで見に行ってみました。燃えるような赤い色こそ過ぎていましたが、まだ田んぼの土手を赤く染めていました。
「彼岸花」またの名を「曼珠沙華」、ほかにもこの花ほどたくさんの異名を持つ花もないそうです。球根に毒性を持つところから鼠避けにと、お墓のあるところに植えられた昔、不吉、死、霊などを連想した名前、また燃えるような赤から火事や花火を連想し、多くの名前が生まれたのでしょう。
先の尖った雌しべが円を描くように天に伸び、この花のもつ造形美にしばし見惚れてしまいました。田んぼでは重く頭を垂れた稲が収穫の準備に入っていました。
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シモツケソウ

2008-07-21 | 野の草花
先週末、富士五湖方面にドライブを楽しんできました。この時期、山道を少し逸れて、林の中で出会えるのがシモツケソウ。これは私が子供の頃から慣れ親しんだ花のひとつです。最近では、園芸種としてもでていますが、もともとは山野草。
深い緑の中の柔らかい薄いピンクの小花は、少し頼りなげにも見えますが、小花が房となった花姿を「霜の降りたような」と例えられるように、群生している様はあたりが淡いピンク色に染まっているようにも見えます。
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はるじょおん ひめじょおん

2008-07-09 | 野の草花
春から夏にかけて、野辺に楚々と咲く白い小花。この時期に咲くのは、はるじょおんではなくひめじょおんでしょうか。このふたつの花はよく似ているけれど、春に少しこうべを垂れて咲き、葉が茎を抱くようにして伸びるのがはるじょおん、初夏の頃、花は上をむいて、はるじょおんより小さい花をつけるのがひめじょおん、もともとは北アメリカからの帰化植物で、野原などでよく見かけます。うっかりすると空き地などにも群生するところから貧乏草などと呼ばれますが、わたしはこのはるじょおんが大好きです。
自分を花にたとえるのはおこがましいのですが、はるじょおんであれば許されそうな・・・そんな親近感をもってしまいます。「可憐でいて、たくましい!」いくつになってもこんな女性でありたいものです。
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