翌朝(11月5日)も気持ちのいい秋空が広がっていました。
岩村田宿 8時に宿を出発しました。本陣0 脇本陣0 旅籠8
内藤藩一万五千石の城下町だったために、宿泊する諸大名は少なく商人町として賑わっていたようです。
中山道の街道筋は現在ではそのまま岩村田のアーケード街となって、
朝早くでお店の様子まではわかりませんでしたが、個人商店で賑わっている感じがしました。
商店街を抜けて直進すると、広い国道佐久甲州街道と呼び、甲州に続いていきます。
8:50
「相生の松」があり、相生町は地名にもなっています。やがて地名は平塚地区となり、リンゴ園と田んぼが続きます。
9:20
芭蕉の句がある荘山稲荷社 たわわにみのるリンゴ
9:50
重要文化財に指定されている駒形の本殿 神社浅間山噴火の溶岩の上に建つ石碑石塔群
10:20 塩名田宿 本陣2 脇本陣1 旅籠7
塩が運ばれてくるルートから塩名田という地名がつけられました。
また千曲川の往還のために栄えた宿でもあったそうです。
当時の屋号がそのまま残る古い商店が軒を連ねている街並みは落ち着いて風情のあるものでした。
街道に対して斜めに建っている建物が目立ちます(ちょっと写真ではわかりづらいのですが)
街道の見張りや大名行列が通る時の物隠れに一役買っていたようです。
またこの地域にも出梁造りの旧家がありました。
10:30
中山道は国道から枡形の道を右に折れて千曲川におりていきます。
塩名田の「川原宿」には千曲川に架かる中津橋が架け替えられて
国道が高い場所を通過するため、国道に出入りしやすいように3階建ての住宅が建てられたようです。
通称「お滝通り」この辺りは千曲の渡しを控えて賑わっていたのでしょう。
旧家の屋号も残っています。
今は中山道は中津橋を渡りますが、当時は橋も度々流されたので渡し舟で渡っていました。
船を繋ぎ止める船つなぎ石が遺構としてあるようですが、先日の台風19号の雨で護岸が崩れたのでしょうか。
補修工事が行われていました。
10:40
中津橋から千曲川の上流側と下流側を望む
先日の大雨で洪水は免れましたが水量がだいぶ多かったのでしょう。川岸に流木などが多くみられました。
11:00
千曲川を渡ると対岸の御馬寄(みまよせ)村に入りました。
貢馬を寄せ集めたところから、地名の由来と言われています。
小高い丘の上に大日如来像や芭蕉の句碑「涼しさやすぐに野松の枝のなり」
まもなく日本橋より四十四里目の御馬寄の一里塚跡を通ります。
中山道はゆるやかな登りとなり、間もなく八幡宿につきます。
11:30 八幡宿 本陣1 脇本陣4 旅籠3
宿場は千曲川を控えて、その悪路のために休憩する大名も多く賑わっていたのだろうと思います。
八幡神社 宿場の名前の由来にもなっているだけに、立派な本殿や随神門が目立ちます。
ところが、私は神社前に佇むバス停になぜか惹かれました。
私にとって、遠い過去に思いを巡らすことのできるのは、こんな昭和のレトロなものかもしれません。
11:40
布施川にかかる「百沢橋」を渡ると、中山道は旧道に入りすっかり山道になってしまいました。
この急坂に「瓜生坂の一里塚跡」がありました。江戸より四十五里目
13:00
望月宿入口 中山道はしばらくこんな急坂をおりていきます。
急坂の道沿いに道祖神や馬頭観音等がへばりつく様にありました。日中は日当たりもいいのでしょう。
近くの農家が収穫した豆や大豆、ゴマなどを箱に入れて天干ししていました。のどかです。
13:30 望月宿 本陣1 脇本陣1 旅籠9
古くから馬の名産地として知られ、毎年旧暦8月15日の満月の日に
馬を朝廷や幕府に献上したことから「望月」の名がつきました。
中沢川の上流側と下流側
街は本陣跡や脇本陣跡が残り、山間の小さな宿場の面影が感じられるひなびた感じでした。
当時の旅籠は現在では旅館となっていました。
中には犬神家の一族の撮影で使われたというプレートのある旅館もありました。
鉄道のアクセスの関係から、この日は望月宿をゴールとしました。千曲バスで25分、長野新幹線「佐久平駅」に着いたのが午後3時でした。
2週間続けて1泊2日の中山道の旅を2回、なんとか中山道69次の25次に辿り着きました。3分の1を少し越えたあたりでしょうか。夫と2人の年齢を考えると加齢と体力の減退が気になる所ですが、健康に気を付けて来年も先に進むことができればいいなと思っています。