あたし、誰を愛してたんだっけ?―忘れた―忘れた。
鈴木祥子「忘却」
病室のドアを開けた。・・・部屋の中は白い陽光(ひかり)に包まれてた。
彼女は・・今目覚めたようだ。眩しそうに僕を見た。。
「今日、仕事でしょ?大丈夫?」「いいの、どーせヒマだから。」
30分くらい話した。仕事のこと、共通の友人のこと、適当に「話を作って」。
彼女を見舞うのは今日で何度目だろう?見舞いの数だけ僕は彼女にウソをついている。
見舞いの後、廊下で看護婦とすれ違った。「あれ?先生、今日は奥さんの見舞いですか?」
その後気付いたように言い直した。「奥さん・・ってどっちの奥さん?」「馬鹿殴るぞ」
僕が睨むと、看護婦は慌てて逃げてった。溜息をつくと、僕は階段を下りてった。
特別治療室で僕の「妻」は眠ってる。その体には沢山のチュ-ブが繋がってる。
あれから・・半年、「妻」は未だに意識が戻らない。
この病院には僕の「妻」と呼ばれる女性が二人いる。一人は本当の妻、もう一人は赤の他人。
僕は市内病院に勤める医者。半年前バスの横転事故があって多くの患者が運び込まれた。
その中に僕の妻と、若い夫婦がいた。ご主人は即死。奥さんは昏睡状態。
そして妻は二度と目を覚まさなかった。生きてはいるが、ただ息をしてる。それだけだった。
2ヵ月後奥さんが意識を取り戻した。そして僕を死んだご主人と思い込んでしまった。
事故のショックで記憶が混乱したらしい。奥さんのご両親の依頼で僕はご主人を演じる羽目になってしまった。以来、僕はご主人のフリをして奥さん-「彼女」を見舞ってる。
「これって浮気じゃないよな?人助けだよな?」僕は妻に話し掛けた。勿論、妻は答えない。
妻が目覚めて僕の名前を呼ぶ事はもうないだろう。それについては、とうの昔にあきらめる。
その日は急患続きで疲れてた。知らずに僕は彼女の病室を訪ねていた。
彼女は起きてた。僕は仕事のグチを彼女にぶちまけてた。彼女は黙って聞いてた。
それから、妻を見舞う事が減った。彼女を見舞う事が増えていった。
僕は話さない妻に会うのが億劫になってたのだ。そして誰かと話す事に飢えてたのだ。
その日・・・妻が死んだ。急に容態が悪化し・・そのまま亡くなった。
僕は後悔した。。もっとチャンとそばにいるべきだった。チャンと診てやるべきだった。
僕は妻を裏切ってた、妻でなく彼女を選んでいた。僕は彼女の病室に足を向けてた。
もう本当のことを話そう。ウソはもう終わりだ。こんな作り話、もうやめるべきだ。
病室に入り、僕は彼女を見ると、急に大声で泣き出してしまった。
「どうしたの?」僕は何もいわずただ泣くだけだった。彼女はすこし笑ってた。
今日は素晴らしく陽気がいい。彼女を車椅子にのせて庭に出た。
結局、あのとき真相を話せなかった。僕は相変わらず彼女の夫を演じている。
いやそれ処か最近では演じる事が楽しくなってる、彼女と話すのが楽しみになっている。
このまま彼女の記憶が戻らなければいいな・・・そんなことを考えたりする。
この感情が「愛情」なのか?「同情」なのか?「現実逃避」なのか?
そんなのわからないし、わかりたくもない。
いつかはきっと、このウソはバレるだろう。それまでは未来(さき)のことは忘れよう。
いまは・・・ただ、この女性(ひと)といたい、この女性(ひと)と話していたい。
最近死んだ妻のことを忘れてる。妻の顔を声を・・思い出せなくなってる。
それは・・・イケナイことだろうか?
ボクはホントは誰を愛してたんだろう?誰を愛してるんだろう?誰を愛して行くんだろう?
もう・・ワカラナイ・・・もう・・・思い出せない・・・
もう・・忘れた、忘れた・・忘れた・・