![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/4d/52919233724489d70d1bb3d733660386.jpg)
護衛艦いせが石川島播磨重工業、第4船渠に入渠したのがHPやブログでやたらと話題になっていましたので旧海軍工廠跡が一望できる地「歴史の見える丘」に出かけてみました。
船底のスタピライザー
朝10頃には湘南ナンバーの車や三脚、カメラの方々が先に撮影に来られてました。この目の前に石川島播磨重工業のドックを見ることができ、護衛艦いせは第4船渠にありました。左手には「大和」を造った造船船渠があった場所(①船渠は平成4年に埋め立てられた)。
一段高い屋根は大和建造中に秘匿のためにつくられたものの一部です。軍艦の一番鑑を建造する工廠は決まっていて、呉は戦艦・大型巡洋艦・潜水艦についてその任を負っていました。これは全てに共通する事項を担当するということであり、まさに海軍造艦の要といえる工廠でした。
船底スタビライザー
「戦艦 」は 呉と横須賀、「空母 」は 横須賀、「大型巡洋艦 」は 呉、「軽巡洋艦 」は 佐世保、「駆逐艦」は 舞鶴と佐世保、「潜水艦」 呉、横須賀、佐世保 「水雷艇 」は 舞鶴と各種艦は担当され建造されました。
旧呉海軍工廠礎石記念塔は1982年(昭和57年)建立。当時,残存していた旧呉海軍工廠の礎石(そせき)を集めて建てたものです。縁石には堺川にかかる二重橋に使用されていたものを使い、銘板が取付けてあるレンガは旧海軍呉鎮守府(ちんじゅふ)開庁当時の庁舎建材を使っています。頭部のカモメのブロンズ像は日本彫塑会員般若純一郎作とありました。
造船船渠記念碑は1993年(平成5年)建立されました。戦艦・大和をはじめ、時代を代表する商船を数多く建造した旧呉海軍工廠造船船渠(①ドック)が埋め立てられることになり、ドックの御影石を使ってドックの底に下りる階段を再現したものです。完成時の船渠の大きさは長さ270メートル、幅35メートル 深さ11メートルで当時東洋一の規模でした。建設に用いられた石材は国会議事堂にの可部財にも用いられている倉橋島産のもの。止水用の粘土は豊田郡安芸津町のもの、石の下に敷き詰められた砂利と砂はそれぞれ山口県今津川と広島県太田川から厳選された材料がつかわれたとありました。この船渠で戦前は大和、長門などの戦艦、戦後は商船が建造され、新鋭工場に生まれ変わるにあたり記念碑を設置とありました。
いせ( DDH-182)は、海上自衛隊の護衛艦。ひゅうが型護衛艦の2番艦です。艦名は令制国の伊勢国に由来し、戦艦(航空戦艦)伊勢に次いで二代目、海上自衛隊の護衛艦としては初代です。「いせ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成18年度計画13,500トン型ヘリコプター搭載護衛艦2320号艦として、アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド横浜工場で2008年(平成20年)5月30日に起工し、2009年8月21日にアイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド横浜工場で挙行された進水・命名式において、防衛大臣政務官岸信夫により「いせ」と命名されました。艦番号は当初DDH-146、建造番号2406号が与えられていたが、艦番号DDH-182、建造番号も2320号に変更されています。
2011年(平成23年)3月16日に就役。第4護衛隊群第4護衛隊に所属しており、護衛隊旗艦です。定係港は呉。当面、呉基地を拠点として乗員らによる完熟訓練等が鋭意実施されてゆく。なお、艦名板は伊勢神宮大宮司:鷹司尚武の揮毫によるもので、材木は宇治橋に使用されていた欅とのこと。
進水 2009年8月21日
就役 2011年3月16日
要目
排水量 基準 13,950トン
満載 19,000トン
全長 197m
全幅 33m
吃水 7m
機関 IHILM2500ガスタービン 4基
2軸推進、100,000PS
最大速 30ノット
乗員 約340~360名
兵装 Mk15ファランクスCIWS 2基
12.7ミリ単装機関銃 7丁
HOS-303 3連装短魚雷発射管 2基
Mk41VLS 16セル
電子装置 OYQ-10 情報処理装置
FCS-3改 対空捜索レーダー
OPS-20C 対水上レーダー
QQS-21 ソナー
FCS-3改
NOLR-3C 電子戦装置
Mk36SRBOC チャフ発射機 4基
搭載機 (通常)ヘリコプター 3~4機
(最大)ヘリコプター 11機
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます