ドイツが最初の電池式魚雷G7eを開発した。従来型の加熱魚雷G7aよりも射程が短く速度も遅いが、航跡がなく安価であるという利点があった。ただし、充電可能な鉛蓄電池は衝撃に弱く、使用前に頻繁に整備を要し、さらには最高の性能を発揮させるには、あらかじめ適度に温度を上げておく必要があった。使い捨ての電池を使用した実験モデル(G7ep)も開発されている。
Mk24 タイガーフィッシュやDM2のような現在の電気推進式の魚雷は、整備の必要がなく、数年以上にわたって保管しても性能が低下しない酸化銀電池を使用している。ほかに、電池の電解質に溶融塩を使用したものがある。
92式魚雷
この魚雷は昭和7年、電池魚雷としては異例の大型魚雷として開発、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等に搭載された。また、一部は特攻兵器である「回天十型」の母体となった。
性能・要目
直径・・・・・・・53.3cm
長さ・・・・・・・・7.15m
雷速及び航走距離・・・30kt/5,000m
炸薬量・・・・・319kg
日本海軍はドイツの電池魚雷の性能(27.5kt、1500m)を上回る30kt3000mをめざし研究開発が始
め、魚雷本体を横須賀海軍工廠造兵部・水雷工場、二次電池を二次電池部・二次電池工場、電動機を電動機部・芝浦製作所(現在の東芝)と定め、各電機メーカーにも協力を求め進められた。
この魚雷は「試製魚雷甲」と命名され、本体の溶接には当時としては大変難しい、軽合金と銅板との水密・気密半田付けが採用された。この方法は非常に難しく、魚雷の完成は昭和4年まで伸びる。
完成した試製魚雷甲は昭和4年2月傾度修正発射、3月には2分間の全力航走試験を行ったが、発射された2本の試製魚雷甲は400m走ったところで停止し浮上してしまった。これを引き揚げ分解調査し5月、修復がようやく完了し実験を再開することとなった。
今度は自記記録計を装備し、事故原因を究明する事となったのである。これは前回の事故原因の究明ができなかったためだ。9月には全力航走試験が行われたが、またも850m走ったところで停止してしまった。しかし、新たに装備された自記記録計が威力を発揮し、故障の原因が計画値である400Aを上回る665Aもの電流が流れたため、主回路のフューズが切れたことが判明。この対策として
1.プロペラのピッチを小さくする。2.電動機をまき直し回転数を少なくする。3.電池数を減らし電圧を小さくする。の3点が考慮されたが、手っ取り早い(3)が採用され、界磁には133個、電動子には107個の電池を使用する事になり、9月27日に第3回航走試験が行われた。その結果は大成功!!予定どおりの性能を発揮したの
である。そして、昭和5年6~8月にかけて射程距離を4500mに伸ばす試験が行われたが2回成功し、1回故障により2000m走ったところで停止し浮上してしまった。
この試験と前後し、昭和5年1月から試製魚雷甲改一の開発が始まり、電池も新型が開発された。この改一では、プロペラとの兼ね合いを考え電池数を108個に減らし、電池の蓋と注液口栓を改良し液漏れ防止能力を向上、また試製魚雷甲の不都合を改善された。そして、この電池は電解液の温度を50°にしたときが最も効率が良く、寒冷地での使用の際は電熱器を活用する事とされた。
”改一”の発射実験は本体3本と電池4組を持って開始された。
大電流放電容量試験、馬力試験、傾斜発射試験、本発射試験と順を追って行われたが、いろいろな不都合が発生しなかなか魚雷に電池を固定できなかった。
昭和6年2月”改一”1号魚雷で実験が始まったが、4月には3000m航走試験時に魚雷側に重大な故障を起こし一時使用不能となってしまったのである。
そして、この魚雷から電池が外され2号魚雷に移された。そして、実験が再開され4月20日から3000m航走試験を2回、4500m航走試験を1回実施したが、電池室内にわずかに海水が入った事、電解液がわずかに漏れた以外は故障らしい故障はなく大成功に終わった。
その後、電池は取り外され充放電試験が繰り返された後、90日で電池寿命が尽きた。 そして、2号魚雷は2組目の電池を搭載し実験を繰り返し、5月11日の5000m航走試験を無事終えた。
しかし、電池はまだ使用可能であり、修理が終わった1号魚雷に搭載された。
5月15日4000m航走試験を行い無事終了、1号魚雷から取り外された後充放電試験を2回実施した後、3号魚雷へ搭載されることになる。その3号魚雷は、7月16日と21日に5000m航走試験を実施したがフューズの溶断により3000mで、27日の4500m航走試験時には電池の衰朽により3500mで停止浮上してしまった。このため、この電池を10A容量試験を行い、良品61個(優良品23個)と不良品47個に分けた。
続き3組目の電池が1号魚雷に搭載され7月30日に4500m航走試験、8月1日に5000m航走試験を行った。30日の試験は成功だったが、1日の試験では目標距離近くで突如停止し浮上してしまった。引き揚げてみると魚雷は発熱しており、ガス抜き栓を開けると黒煙が吹き出してきた。分解してみると自記電圧、電流計が故障し電池群の首部と尾部の計20個の電池が焼損していたのである。
8月23日、残っていた93個の電池を10A容量試験を行い、良品81個を選び出し2組目の優良品23個と合わせ、9月5日4500m航走試験を実施、成功を収めた。
そして、最後の4組目の電池を2号魚雷に搭載し、5000m領収発射試験を無事終わらせ全実験を終わった
のである。
この実験の結果を基に、昭和7年から92式電池魚雷の開発が始まった。目標性能は射程7000m、30ノットであった。この性能を発揮するためには電池数を増加させる以外なく、自
停後は沈没やむなきとなってしまったのである。が、すべて沈没させるわけにはいかず訓練用のものは電池数を減らす事となっていた。
12月までに3本の92式電池魚雷が製造され、翌年3月まで実験を実施、無事終了するが、なぜか量産命令は出ず、7年後の昭和15年突如として量産が開始された。
しかし、7年間のロスはいかんともしがたく様々な問題が噴出した。
これは工場にも及び、すでに他の軍需製品に改めていたため、防縮剤の製造は江戸川工業に依頼する事となった。そして、江戸川工業から3種類のバリウムが提出され、昭和16年5月防縮材の製造調査、木製隔離版とエボナイト製隔離版の比較、などを12個の電池で実験を実施している。ついで9~12月には8個の特M型電池改一の実験を行っている。この頃から教練用電池を”特M型”、実戦用を”特M型改一”と呼ぶようになったと言われる。ちなみに”特M型”は魚雷の重量配分を検討した結果”特M型改一”より50g軽くなっていた。
大戦中の92式電池魚雷は用兵者側が射程が短いこと、整備の難しさから使用を渋り、結局倉庫に山積み状態となった。それが大戦末期になって目を付けられる事となる。それを人間魚雷に改造しようというのだ。これは、改造しやすい事が理由であり、3ヶ月で500基も人間魚雷にする計画であった。電池室を中央で真っ二つにし、そこに操縦室モジュールを挿入。舵面の拡大と人力舵と操作ロッドの新設など簡単な改造で、作られた人間魚雷は回天十型と名付けられ急速に量産、訓練、配備が進められたが計画は遅れ、終戦時には2基(一説には6基)が完成していただけだった。
日本の航空魚雷としての九二式魚雷(電池駆動の航空魚雷)は単なる試験的モデル以上のものではなかった。