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国鉄52系電車 モハ52004

2022-08-30 07:43:20 | 乗り物(列車・車両)

国鉄52系電車
2系電車(52けいでんしゃ)は、1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて、鉄道省が京阪神地区固有の急行電車に使用することを目的に製造した複数車種・形式の旧形電車を便宜的に総称したものである。

基本設計は京阪神地区電化時に設計された42系電車に準じるが、車体形状に当時世界的に流行していた流線形を取り入れるとともに、歯車比をより高速タイプとし、当初は「魚雷形電車」と形容され、後には「流電」の愛称で親しまれた。第二次世界大戦後は最初の転用先となった阪和線で特急電車に使用された。1948年 (昭和23年) には高速試験の記録もある。


なお、広義の42系の一部として扱う考え方もあり、実際にしばしば42系と共通運用された。


概要
京阪神緩行線および急電向けに増備が続いていた20m級2扉クロスシート車である42系を基本としつつも、高速運転を実施する急電用に特化し、また4両固定編成を組むことを前提に各部の設計が行われている。汎用性を重視する傾向が強かった戦前の鉄道省制式電車としては極めて異例のコンセプトに基づく車両である。

機器面では主電動機がMT15系の高定格回転数モデルであるMT16(端子電圧675V時定格出力100kW)、主制御器(CS5形電空カム軸式制御器)、それにA動作弁によるA自動空気ブレーキ、と在来車とほぼ同一の仕様となっている。このため、運転上の取り扱いは42系と共通であり、付随車や制御付随車の混用が可能であった。ただし、高速運転を目的として歯車比が42系の1:2.26に対し、本系列は1:2.04に設定され、台車についても抵抗軽減を目的として、当時最新のスウェーデン・SKF社製ローラーベアリングを軸受に使用するTR25A(電動車用)およびTR23A(付随車用)に変更されているため、運転曲線そのものは42系と異なっている。

車体についてはリベット組立を採用していた従来の42系とは異なり、電気溶接による全溶接構造となり、加えて側窓上下の補強用帯(シル・ヘッダー)を外板裏側に隠したノーシル・ノーヘッダー方式を採用、併せて雨樋を屋根肩部からより上部に移設して幕板と屋根板肩部を一体とした、張り上げ屋根方式を採用したこともあって、非常に平滑なすっきりとした外観となった。また、連結面は完全な切妻とされ、編成としての美観を考慮したデザインとなっている。

「流電」の象徴ともいうべき流線形の前頭部は、半径1,200mmと半径2,800mmの円を組み合わせた半楕円形の周上に4組の平板ガラス窓を配置し、窓柱を15°内側に倒したもので、前端部の幕板と屋根板の接合部を引き下げた屋根形状や、裾部が丸め込まれた床下のスカートとともに、1933年8月より運行を開始したドイツ帝国鉄道(DRG)の「フリーゲンダー・ハンブルガー(Fliegender Hamburger)」用SVT877形(後のDB VT04形)電気式ディーゼル気動車の影響を強く受けた造形である。そのデザインは窓柱幅が細くガラス窓が目立つ配置となっていたこともあって本家よりも明朗かつ流麗にまとめられており、その登場は他の幾つかの流線形車両とともに、日本の社会に流線形ブームを引き起こすほどのインパクトを与えた。

もっとも、動力性能(最高速度95km/h)では、流線形採用による空力的なメリットは十分得られなかった。また、床下機器の保守についてサイドスカートの開閉を必要とし、またサイドスカートを上方に跳ね上げて開いた際のロック機構が無く、支え棒で開いた状態を維持するという非常に原始的な構造であったため、誤って支え棒が外れ閉じてきたサイドスカートで指をつめる、頭を打つ、といった事故が頻発し検査の障害となった。さらに、乗務員扉を省略したことから車掌による客用扉開閉の際に、特に混雑時のドアスイッチの取り扱いでさまざまな不便が生じた。その特徴的な外観は大きな社会的反響を呼んだものの、これらの事情から、2回に分けて3編成12両が流線形仕様で製造されたにとどまり、急電運用に必要であった残り2編成8両については、52系と当時の標準設計を折衷した半流線形仕様で製造されることとなった。

モハ52形第2次車
1次車が好評だったことから、1937年3月15日竣工[3]として1936年度予算で2編成8両が増備された。使用開始は第2編成が同年6月25日、第3編成が同年8月22日である。製造は、モハ52形・サロハ66形は川崎車輛兵庫工場、サハ48形は日本車輌製造本店が担当した。
この2次車は、1次車と基本構造や主要機器は同一であるものの、同車の使用実績を反映して側窓配置の大幅な設計変更や一部座席配置の変更が実施された。これらの車両では当時量産中の制式客車が広窓採用の方向へ進みつつあったのを受けて、こちらも側窓が広幅のもの(三等室が1,100mm、戸袋車端部が700mm、二等室のクロスシート部は1,200mm)となり、さらにスマートさが増している。このため、1次形の「旧流」に対して「新流」と呼ばれることもあった。番号と編成は竣工当初の1次車とはサハとサロハの連結順序が逆転している。
52003 - 66016 - 48030 - 52004
52005 - 66017 - 48031 - 52006
1次車では屋根肩部にあったルーバーは廃され、屋根上の通風器はガーランド形が1列に配置された。また、三等付随車(サハ48形)には車端部にトイレが設置され、二等三等付随車は当初から車体中央の間仕切り部の三等室側にトイレを設けたため、サロハ66形が付与されており、東京地区横須賀線の同形式車の追番となっている。

国有鉄道を代表する電車であることから、2020年(令和2年)現在、2両のクモハ52形(52001・52004)が保存されている。
クモハ52001は当時の国鉄関係者、特に大阪鉄道管理局の関係者の尽力で廃車直後に古巣と言うべき吹田工場に移され、そこでパンタグラフをPS13から本来のPS11へ戻し、1次車の特徴であった半室式運転台や側面の通風用ルーバー[注釈 12]をはじめ極力二次車竣工直後の塗装変更後に近い外観と内装に復元されたが、代品の調達ができなかった客用扉と台車は更新後のプレスドアとDT13のままとされた。1981年(昭和56年)10月14日には準鉄道記念物に指定され、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化後は西日本旅客鉄道(JR西日本)に引き継がれ、2019年(令和元年)現在も吹田総合車両所本所玄関前に展示されている。吹田工場の一般公開時には、車内の見学も可能である。

一方のクモハ52004についても、広窓流電の1両として飯田線沿線での保存が計画された。しかし、当時は保存先が見つからず、やむなく豊川に工場が所在する日本車輌製造に保管が打診された。同車は川崎車輛製であり、同じ鉄道車両メーカーである日本車輌製造側にしてみれば、他社製の車両を保管することについて、少なからぬ反発があったという。しかしながら、縁の深い飯田線の象徴ともいうべき流電であることから、日本車輌製造側の英断により、同車の保管が実現したのである。原形に復元されたクモハ52001に対し、クモハ52004は最終状態で保存された。国鉄分割民営化後は、飯田線を所管する東海旅客鉄道(JR東海)の手により、1991年(平成3年)に中部天竜駅構内に開設された佐久間レールパークに移された。当初は、最終状態のまま整備のうえ展示されたが、後年外形はそのままに塗色が竣工時のクリーム色と茶色にされ、追ってスカートの取付けや前照灯の埋め込み化を行なった。この「復元」については、側面客用扉以外はほぼ忠実に復元されたクモハ52001に対し、クモハ52004は乗務員扉や、更新修繕で交換された屋根上のグローブ形通風器を存置した状態であった。なお、同車は2011年(平成23年)に名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館で、製造時の姿に復元のうえ展示されている。


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