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人間魚雷回天 阿多田交流館

2011-08-27 09:45:06 | 遺構 /人間魚雷 回天の島 大津島など

太平洋戦争末期に編成された水中特別攻撃隊の訓練基地跡に「阿多田交流館」は建っています。水中特別攻撃隊などに関する貴重な遺品・資料や、映画「出口のない海」の撮影で実際に使用された人間魚雷「回天」の実物大レプリカなどが展示されています。

「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」 決して生きて還ることのない必死の特攻兵器。 戦況が悪化した昭和19年8月1日、人間魚雷「回天」が兵器として採用されました。
  

 回天を乗せた台座や海中で潜水艦から直接回天内部に入る搭乗口(交通筒)を忠実に再現していました。
このレプリカは市川海老蔵扮する主人公並木浩二が回天の 搭乗訓練をする場面で実際に海に浮かべ撮影したものだそうです。


昭和19年8月、回天が兵器として採用された直後から、搭乗員の募集が始まりました。旧海軍の潜水学校建設のため、阿多田の住民は先祖から守ってきたこの土地から立ち退きを余儀なくされたとのこと。そして敗戦色濃くなった昭和19年早春、旧海軍の潜水学校を開校し、その翌年の早春特殊潜航艇「蛟龍(コウリュ ウ)」 ・「海龍」、人間魚雷「回天」の基地が造られました。

 
昭和20年3月1日回天基地平生突撃隊が開隊、同年4月17日より平生湾で訓練が開始。

回天は九三式魚雷2基を合体して考案されたもので操縦は難しく、 大変危険を伴うものでした。訓練 の内容のメモを読んだのですが、そのレプリカのメモからは、さまざまな科学知識が叩き込まれた様子が伺い知れました。

館長の話しだと回天の操縦には、秒時計が不可欠でした。また、目標への突撃角度を図るために搭乗員は射角表を使用していました。館には元搭乗員より寄贈を受けて秒時計と射角表を展示していました。

また、平生基地では訓練中の事故で3名が亡くなっており、その遺影が飾られていました。

 


回天は前進しかできないばかりか、脱出装置もありませんでした。突撃したものの、海底に突き刺さって浮上できず亡く
なる隊員もいたそうです。酸欠で苦しんで死ぬこともあり、出撃の際には自決のための短刀「護国」と拳銃が渡されたと言われます。最初は青酸カリだったのですが基地内で紛失事件があり変更になったとの事です。。


出撃前の写真。隊員たちが手に持っているのは「護国」
です。

終戦後自決した特攻隊長橋口大尉の「自啓録も展示されていました。 特攻隊長の橋口大尉が海軍学校入学から、平生基地で自決するまでが克明に記録されています。彼は、大変指導力があり、回天の操縦技術も優れていたと言われています。ゆえに大尉の出撃はままならなかったとの事です。部下の出撃後、自らも血書を以って出撃を嘆願しようやく8月20日に特攻隊長として出撃命令を受けますが、終戦となりました。8月18日未明、出撃して死んでいった部下達の後を追うように自ら命を絶ちました。

「自啓録」には「後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや」 高杉晋作の句を引用した遺詠とともに多くの友の名を書き残していまました。

館内には戦時中の生活を物語る展示品が多数収められていました。出征兵士に贈った「千人針」といって1mほどの白布に赤い 糸で、千人の女性が一人一針ずつ縫って結び目をつくった布も展示されていました。 兵士はこれを護符として腹に巻いた り、帽子に 縫いつけたりしたそうです。

ほかにも慰問袋といって兵士を激励するため缶詰などの食料や日用品、手紙などがつめて贈られいたとのことです。陳列ケースには、その時もらったお菓子の空き箱を大事にとっていたものが飾られていました。

 

また、平生では特殊潜航艇「蛟龍(コウリュウ)」・「海龍」の艇長や搭乗員の講習も行われ、その貴重な資料 も残されています。この平生の地で、延べ五千人の若い隊員が二、三ヶ月間の基礎訓練や教育を受け 突撃隊基地に 配属 されました。

ほとんどの隊員の最後の会話は「ここまでありがとう。無事皇国に無事戻ることを祈っております。」家族や陛下への言葉ではなく、母艦への感謝の言葉だった様子です。

 

 


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