旧要塞砲台の沿革
この花崗岩造りの一連の構築物は、旧高烏砲台の跡である。
明治16年第二海軍区鎮府の候補地として呉港があげられ、明治19年7月軍港設置とともに敵の艦砲射撃に備えて軍港防備の陸上砲台は陸軍において構築することになり、陸軍予算として閣議にあがったが、第一期計画からは除外された。
たまたま日清戦争が起こるにいたって、広島に大本営が置かれるなど情勢の変転に伴って再び砲台構築の議が起り、明治29年陸軍の手によって砲台、火薬庫、兵舎などの工事が始まり、引き続き同32年から3ヶ月の歳月を費やして完成した。
後になって海軍の所管に移され太平洋戦争においては専ら防空砲台として使用されたが、明治中期の軍港を護る要塞砲の形式としては珍しいものである。 呉市(現地案内板より)
略年表
1898(明治31)年7月27日 勅令第百七十六号として「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布。
1898(明治31)年9月28日 陸軍省告示第十一号により呉要塞の周辺区域が明示された。
28cm榴弾砲の砲座
1899(明治32)年7月14日 法律第百五号として「要塞地帯法」が公布。
1899(明治32)年8月11日 陸海軍省告示により呉要塞地帯が明示された。
1900(明治33)年4月 呉市に呉要塞司令部開庁。
1900(明治33)年12月 高烏堡塁砲台の起工。
1902(明治35)年6月 高烏堡塁砲台の竣工。(28cm榴弾砲6門の備砲を予定していたが実施されなかった)
1903(明治36)年3月30日 呉要塞司令部が広島市段原村に移転。
1903(明治36)年5月1日 陸海軍省告示により「呉要塞」を「広島湾要塞」と改称した。
1904(明治37)年1月5日 陸軍大臣より広島湾要塞射撃準備の内達。
1904(明治37)年1月20日 室浜砲台、鷹の巣高・低砲台、大那沙美島砲台、岸根鼻堡塁砲台、鶴原山堡塁砲台、三高山堡塁砲台、大君低砲台、早瀬第二堡塁砲台、休石砲台の射撃準備完了。
砲側庫
1904(明治37)年2月4日 御前会議でロシアとの国交断絶・開戦が決定。
1904(明治37)年2月5日 函館要塞・対馬要塞・佐世保要塞・長崎要塞・澎湖島要塞に動員下令。
砲側庫
東京湾要塞・由良要塞・広島湾要塞・舞鶴要塞・下関要塞・基隆要塞に警急配備下令。
1904(明治37)年2月9日 日露戦争勃発。
1926(大正15)年6月 広島湾要塞の廃止。
砲側庫
要塞廃止後 海軍省へ移管され、防空砲台となり、高角砲が据え付けられた。
砲側庫
昭和17年4月 3年式40口径8cm高角砲3門 ステレオ式2m高角測距儀1、89式角射撃盤2型改一1 須式110cm探照灯1、90式空中聴音機1 38式小銃6、12cm双眼鏡1、7倍双眼鏡1、6倍双眼鏡1 配員 下士3(臨12)、兵19(臨28)、分隊長のみ
砲側庫
昭和17年8月 12cm高角双眼望遠鏡1、観測鏡1、7倍双眼鏡2 2、4番砲装備 計4門(?)
昭和19年3月 8cm高角砲1門増備
兵舎
昭和19年11月 8cm高角砲4門 畑高地へ移設 12.7cm連装高角砲3基 熊野の物を同所に変更
兵舎
昭和19年12月 現状 8cm高角砲4門 既設 150cm探照灯1、空中聴音装置1
兵舎
昭和20年1月 現状 8cm高角砲4門
昭和20年8月31日 引渡:12.7cm連装高角砲3基 3式陸用高射装置付属品補用品共 1組 4式陸用高射装置付属品補用品共 1組 94式4.5m高角測距儀付属品補用品共 1組 須式110cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
90式空中聴測装置、付属品補用品共 1基 12cm高角双眼望遠鏡 1個
8cm双眼望遠鏡 1個 5式砲戦指揮装置、付属品補用品共 1組(実験用)
仮称4号1型電波探信儀(S3) 未装1
建築物 兵舎2、其ノ他付属施設6
戦後 音戸の瀬戸公園として整備。
砲台南西部は明治期砲台そのままであるが、28cm榴弾砲の砲座の辺りに3基の砲座が造られていたとのことです。
東部には大きなすり鉢状構造が残っているが、ここには電波探信儀が設置される予定であったとのことです。
日招き岩
音戸の瀬戸の切り開き工事を行った平清盛公が、この岩上に立って天に祈り、金の扇を開いて西に沈む太陽を招きかえし一日で工事を終わらせたという伝説の岩。
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