
特殊潜航艇の「P基地」を訪ねて見ました。まずは余り紹介されていない機銃跡です。
特殊潜航艇(略称・特潜)訓練基地
「昭和17年10月極秘裏に工場の建設が始められ、翌18年3月創業開始、
これが特殊潜航艇(甲標的)製作専門の呉海軍工廠分工場であった。
また搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長、艇付、合わせて2600名、 内戦死者は439柱に及んだ。
当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究開発で、
昭和20年になると甲標的丁型(蛟龍)の完成をみ、
一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して、来るべき本土決戦に備えたが、
同年8月15日終戦を迎えて基地は廃止された。」
九六式二十五粍高角機銃(きゅうろくしきにじゅうごみりこうかくきじゅう)とは、第二次世界大戦中に日本海軍で使用された固定式対空機銃。1936年(皇紀2596年、昭和11年)に採用され、様々な艦艇に幅広く搭載されました。
九六式二十五粍高角機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25mm機関砲を基に1935年(昭和10年)に開発されたガス圧作動方式の対空機関砲である。艦艇搭載用の対空機関砲としては他にイギリスのビッカース製2ポンド対空砲(毘式四十粍高角機銃、口径40mm)があったものの、こちらは射撃速度と射撃精度に劣っていました。
こうして翌1936年に“九六式二十五粍高角機銃”として制式化されるに至った。九六式は採用年(皇紀)の下2桁、口径が25mmであるにもかかわらず機銃と称するのは、海軍では口径40mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と称していたからです。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用しました。
二十五粍機銃には単装、連装、三連装の3つのバリエーションがあり、単装は銃架に乗せて一人だけで全ての操作が可能。連装・三連装については銃架の右側にある座席に左右の調整を担当する旋回手、左側にある座席には俯仰角の調整および発射を担当する砲手が座って操作する。艦艇に搭載された三連装機銃については、大和型戦艦に見られるようにシールドがつく場合がありました。これには敵弾を防ぐための防弾板を射手の前に立てたシールドと、主砲発射の際に発生する爆風から身を守るために機銃を覆うように付けられた非防弾のシールドがあり、大和型戦艦は後者を採用しました。
生産が始まると二十五粍機銃は文字通り海軍の主力対空機銃として戦艦、航空母艦から輸送艦等の補助艦艇に至るまで様々な艦艇に搭載されました。また陣地防空用として陸上にも設置された。戦争が激化し、敵航空機の脅威が高まると艦艇への搭載数は増加する傾向にありました。
九六式二十五粍高角機銃に対する一般的な評価は必ずしも高いものではありません。戦時中から現場から二十五粍機銃の射程距離の短さに不満が出ました。戦艦武蔵艦長の猪口敏平も、遺書に「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」と書き遺しています。海軍砲術学校は1945年(昭和20年)5月に「敵機に致命傷を与えられる有効射程は1500m程度」と発表。また、弾倉を用いて給弾する方式も持続射撃が困難であるとの声が出た。
また、二十五粍機銃の評価の低さを射撃指揮装置の能力不足に求める考えも有る。日本が対空砲群の管制に用いていた九五式機銃射撃指揮装置は移動目標への従動射撃用に機械式リード角計算装置を組み込んでいたが、照準にはまず目標諸元を割り出して照準線を調整し、それを目標に合わせるという手間が掛かるものでありました。 九五式射撃指揮装置は敵機の速度の測定範囲の上限が380キロと遅かったため、高速な敵機に対して照準することが出来ませんでした。このため、早期に棒状の照星を固定して射撃する方法に変更されてしまいました。改良型の照準器が制式化されたのは昭和19年12月でこの時に採用されたのは機械式計算装置を一切持たない簡単な環式照準器でしきました。 米軍の射撃指揮装置は時代と共に高度に発達していったのに対して日本では後になるほど単純で人間頼りな照準装置へ移行していきました。
ただし米軍は「致命傷を与えうる機銃」としてエリコン20mm機銃より威力の高い二十五粍機銃を恐れていたようです。米軍機は異様なほど、それこそ機動力を阻害してでも防弾性能を求める傾向にあったがそれでも銃弾が貫通したケースが多い。
二十五粍機銃の利点を挙げるとすればその耐久性だろう。故障したケースが少なくいかなる状況でも稼動させることが出来ました。他の対空機銃ではドラムマガジンが故障したケースが多く、箱型弾倉を使ったことも結果的に耐久性の向上につながりました。また日本軍の生産能力で艦艇の大半に配備できた上、戦争末期でも大量の二十五粍機銃を搭載できたことから生産性は非常に良好だったと思われる。また、各国の主力としていた20mmクラスの対空機銃に比べ威力はかなり高かった。
こうした状況にもかかわらず、さしたる手直しもなされることなく二十五粍機銃は終戦まで生産が続けられ、最終的な生産数は約33,000門にも上る。また、アメリカ軍の反攻作戦が開始されると、南方の島々ではこれらの機銃を敵の上陸が予想される砂浜や湾が見渡せるような場所に設置されることが多くなった。これは対空用途とは別に、島に向かって来る上陸用舟艇やLVT等への対舟艇防護射撃に用いられ、戦果をあげた。硫黄島の戦いでも二十五粍機銃はアメリカ軍戦車などへの対地射撃で威力を発揮し、アメリカ兵から恐れられた。
大戦末期には単装式が多くの艦艇に増設された。海軍砲術史には対空射撃の方法として「連装をやめ一人が体動で上下左右の照準が出来る構造として、食うか食われるかの一騎打ちの闘志を練成すべし」と書かれていたようにアメリカ軍がレーダーや射撃指揮装置による射撃システムを構築して行ったのとは対照的に日本軍では射撃システムとしての運用を放棄して個人の技能へ依存する方式へと移行して行った。 ただしこれには異説があり、既存のバーベット式機銃を弾幕形成に用い取りまわしの悪い二十五粍機銃の機動性を改善しようと言う方式に移ったという説もある。バーベット式の機銃は敵機を追随できないためだ。米軍がエリコン20mm機銃を特攻機対策に増設し、これらに射撃管制装置を付随させることを出来なかった実情を考えれば解からなくも無い発想である。
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