標高184mの「大空山」山頂にある公園、大空山公園は、大空山堡塁の跡地を利用しています。 展望台もあり、広湾方面の瀬戸内海の美しさも楽しめ、阿賀や広、横路など市東部の町並みが一望できます。園内には1,200本の桜があり市内の名所の1つになっています。
堡塁は、広湾の防御を目的として28cm榴弾砲4門を備える砲台として明治年間に建設された。 その後防空砲台に転用され、高角砲が装備された。
戦時中には海軍の応急防空砲台として88式7cm高射砲6門が配備された様子ですが戦後、畑になってしまっているとの事。。
また呉市青少年教育施設「大空山青年の家」がありますが兵舎のあった場所に建てられているもよう。
明治期、大空山に28cm榴弾砲4門の大室山砲台が築かれた。しかし砲の不足から実際に備砲は行われなかった。しかも当初は側面防御の為に15cm臼砲の装備も考えられていたらしいのだが、これすら途中で省かれてしまったとのこと。
弾薬庫他
公園の駐車場から少し下ったところに弾薬庫が残っている。
砲床と砲側弾薬庫は2組ある。
日付呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録
昭和19年11月工事中 呉鎮命令第425号
昭和20年1月88式7.5cm野戦高射砲6門 応急配備
昭和20年8月31日引渡:
7.5cm野戦高射砲6門
90式航速測定器 1組
97式2m高角測距儀付属品補用品共 1組
96式管制器 1組 (仮設)
仮称4号3型改一電波探信儀
日本軍の高射砲は、戦争を通じて他の主要国の物よりも遅れていた。日本は防空に関する諸問題や防空力不足を解決するだけの技術的・生産的基盤を持ち合わせていなかった。それに加えて、日本はドイツからの限られた技術的援助しか受けられず、また一般技術者を有効利用できなかった。
日本軍で最も広く使われていたのは1928年に制式化された88式75mm高射砲だった。14.5ポンドの砲弾を初速2360fpsで発射し23550フィートまで飛ばすことができたが、実際には有効射高は16000フィート足らずであった。アメリカやイギリス、ドイツが、より大口径でより性能の良い高射砲へ移行していった中で、日本は戦争を通じてこの高射砲を使い続けた。
日本軍が兵器の更新をしようとしていなかったということではなく、1944年に改良型の75mm高射砲(4式75mm高射砲)を開発している(ただしこの高射砲の生産数はたった65門に止まり、実戦に使われることは無かった)。
同様に日本軍は120mm高射砲を1943年に開発したが、これも生産数は154門に止まり、150mm高射砲に至っては2門しか配備されていない。日本軍は他にも少数の88mm海軍砲(99式88mm高射砲)を使っていた。
日本軍は1941年に本土防衛として300門の高射砲を持っていた。1945年3月までで1250門に、そして終戦時には2000門を越していた。そして当然のように高射砲の多くを(全部の内の509~511門)東京周辺に配備していた。
そしてその中には、1945年8月の時点で、88mm高射砲が150門、120mm高射砲が72門、そして150mm高射砲が2門が含まれていた。ドイツと比べてみると、日本の高射砲の数は少なく、性能も劣っていた。
それに加えて日本のレーダーはドイツのレーダーと比べて遥かに劣っていた。日本軍はドイツの技術を利用せず、主に捕獲したアメリカやイギリスの装備に頼っていた。
少しおかしな事に、日本の高射砲は他国のものよりも効果が低い。全体での損失数と、延べ機数あたりの割合とで比べてみると、アメリカ陸軍航空隊にとって日本よりもドイツとの戦いの方がより損害が大きかった(ドイツ:18418機、1.26%、日本:4530機、0.77%)。戦争全体では、アメリカ陸軍航空隊は日本軍の高射砲によって1524機、戦闘機によって1037機を撃墜されたとしている。
日本の対空火器による非撃墜率は、アメリカ海兵隊よりもアメリカ海軍の方が大きく、海軍は損失2166機中1545機を、海兵隊は損失723機中437機を撃墜されている。
日本に対する戦略爆撃作戦では、アメリカ陸軍航空隊は最も優秀な爆撃機であるB-29を投入したが、B-29はドイツを爆撃したB-17やB-24よりも速度や高度、搭載量で優れていた。
アメリカ陸軍航空隊は日本との戦いで414機のB-29を失ったが、その内の74機が敵戦闘機によって、54機が高射砲、19機が戦闘機と高射砲によって撃墜されたと評価している。
日本軍の高射砲と電子機器の効率の低さから、アメリカ軍は戦前の爆撃理論による、かつヨーロッパ戦線での戦略爆撃で実施していた、昼間の高高度爆撃から夜間の10000フィート以下での低高度爆撃へと変更した。
ドイツ軍の戦闘機との戦いが主だったドイツでの作戦と違い、爆撃機の損失ではなく爆撃精度の低さから、この変更が為された。結果として、東京に対する低高度での夜間爆撃では損害は少し減り、それまでの昼間高高度爆撃の際の延べ814機中損失35機(4.3%)が、延べ機数1199機中損失39機(3.2%)になった。それと同時に爆撃の効率は大きく上昇した。
数の少ない日本軍の高射砲と性能の悪い電子機器の為に、アメリカ陸軍航空隊はより低高度で爆撃する事が可能になり、初期の高高度からの爆撃の際よりもより多くの爆弾を搭載し、しかもより正確な爆撃を行い、尚且つよりエンジン等の故障が少なくなったのである。
アメリカ軍は、日本の都市や町に対する空襲をごく一般的な兵器で行った。日本軍の高射砲数の不足と、それからアメリカ軍側の防御手法である探照灯に対する飽和攻撃や、ECM、聴音機駆動の探照灯を妨害する為の爆撃機のエンジンの非同期装置、更には光沢のある黒い塗料の使用によって、消耗は減少してゆき、耐え得るものになった。
高射砲と、高射砲並びに戦闘機によるB-29の損失は、1945年1月の延べ機数あたり1.06%をピークにして、一定の割合で減少していった。東京は、日本の目標の中で最も爆撃を行った都市であり(延べ26000機の内の4300機)、また最も防御力の高い都市でもあった。
第20航空軍の高射砲による損失55機の内の25機、高射砲と戦闘機による損失28機の内の14機が、東京での爆撃時のものである。もちろん、防御力の低い都市での損失はそれよりも更に低くなる。
特に延べ4776機が行った夜間の低高度並びに中高度での日本の主要都市に対する爆撃では、第20航空軍は83機(1.8%)を失ったが、同じ条件での日本の地方都市に対する爆撃ではたった7機(0.1%)を失ったに過ぎないのである。
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