大正8年野戦重砲兵旅団司令部と野戦重砲兵第2連隊、連隊施設として三島衛戌病院が開設されました。翌年には同第3連隊がそれぞれ横須賀から三島に移転して平時は3,000人余が常駐していました。
軍需品を製造する中島飛行機、電業社、明治ゴム、共立水産などの工場が進出してきました。庶民の生活必需品もだんだん欠乏してきましたが、三島は農村地帯でしたので比較的食糧事情はよかったそうです。
軍人相手の貸家が増え、商店・飲食店・娯楽施設(遊郭、茶屋、写真館、遊技場、みやげ物屋など)の約60パーセントまでが軍人家族と数千の兵隊たちにより利用され盛況を呈したのです。
しかし大正時代に入って町の風紀上の問題も高まり、新しい移転先の土地買収や遊郭建築費などに多額の資金を必要としたため、5軒の業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で遊郭を共同経営することになり、1925年(大正14)年に茅町(旧新地・現清住町)へ遊郭が移転し、敗戦後の売春防止法制定1956年(昭和31年)まで三島遊郭として存在しました。
清住町の建物は賃貸アパートとして昭和40年半ばごろまで残っていました。また、現在の三島商工会議所の一角には憲兵隊司令部三島分隊が駐在していました。
現在は第2連隊跡に北中、日大、などの教育施設が設けられ、第3連隊跡には、北高、北小、JR東海社員研修センター、税務署、県立教育研修所が置かれています。
東海道線が三島をはずれて御殿場経由で開通したため寂れた三島町は、連隊が来たことで活気を取り戻しました。また、道路も整備され交通事情もよくなったようです。現在の日大通りもこのころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられました。桜の寿命が短いため、現在は銀杏だけが残っています。
昭和7年(1932)2月、上海事変へ一個大隊が出征したのを始めとして、多くの兵士が、ここから中国大陸や東南アジアへ送られていきました。野戦重砲兵第2連隊の営門は、JR三島駅のすぐ近くにある三島市立北中学校の校門。
野戦重砲兵第二連隊跡の碑と、立哨小屋
昭和20年(1945)になると、アメリカ軍による空襲が激しくなって空襲警報が鳴り響くこともあり、市内数カ所で機銃掃射、市外の水田に焼夷弾の落下などがありましたが、大きな空襲は受けずにすみました。
終戦に際しては、龍澤寺、山本玄峰老師の助言の話が語り継がれています。また三島市内では、20数カ所の戦争関係慰霊碑、慰霊社がひっそりと祀(まつ)られています。
連隊の前を通る佐野街道は、箱根越えを難とした旅人の回り道や富士登山須山口の登山道として、古くから使われてきました。大正年間に、野戦重砲兵第2連隊が設置されたことにより、18mの幅で街道が整備されました。現在もイチョウ並木が残されています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます