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1912年(大正元年)に鉄道院向けに汽車会社で製造された工藤式の蒸気動車で、当初形式はホジ6013型のホジ6014、大正3年の改番でジハ6005型のジハ6006となり、最終的にはキハ6400型のキハ6401となります。見掛けは3扉車ですが、実態は、前後の扉は機関室なり運転室への出入り用なので、乗客の乗り降りに使えるのは中央の1箇所だけです。この事からだけでも、元来が閑散線区用に作られた車輛だと言う事は明らかです。
蒸気動車と言うのは現在のディーゼルカーの先祖のような存在です。客車の車体に、ごく小型の蒸気機関車の下回りのようなものを取り付けてあるものです。日本ではフランス起源のセルポレー式や、ハンガリー起源のガンツ式などの蒸気動車が試験的に輸入されましたが、曲がりなりにも使いものになったのはこちらの工藤式蒸気動車だけだったようです。ガンツ式などは、構造が精巧過ぎて当時の日本の技術力では使いこなしきれなかったようです。ガソリンカーが普及してくると2線級の存在に追いやられていた蒸気動車ですが、戦時体制下で石油資源が枯渇してくると再度日の目を見るようになります。もっとも、戦時中に復活した蒸気動車はあっても、戦時中に新造された蒸気動車と言うのはなかったようです。終戦後は真っ先に払い下げの対象となり、単なる客車としてならば昭和30年代まで生きながらえていた車輛もあったようです。
工藤式は、鉄道院には1912年から1914年にかけて18両が導入され、その他にも外地の鉄道を含めて1920年頃までに少なからぬ導入例がある。既にガンツ式導入経験のあった河南鉄道のほか、三河鉄道(現・名鉄三河線)、湖南鉄道(現・近江鉄道八日市線)、播州鉄道(現・西日本旅客鉄道加古川線)などが少数導入し、また台湾総督府鉄道も5両を導入している。製造の多くは汽車製造によるが、工藤兵次郎の汽車製造からの退社により、汽車製造以外に川崎造船所(現・川崎重工業)や枝光鐵工所など、大手・中小での製造例も少数生じたとの事です。
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