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高宮町をドライブ中、立ち寄りました。
1563(永禄6)年、毛利元就の長男隆元は、出雲の月山富田城の尼子氏を攻めるために周防の防府から吉田に戻り、その足で出発しましたが、高宮町佐々部式敷で急死してしまいました。(当時41歳)尼子氏との激戦の最中だったので、佐々部の蓮華寺で遺骸を荼毘にふして遺骨は吉田郡山に持ち帰りました。その火葬場の跡へ地元民が2段の基壇をもつ石碑を建て、隆元逝去の地を「隆元の墓」として香華しています。
永禄6(1563)年、九州の大友氏と講話を結んだ毛利隆元は出雲攻めの元就応援のため遠征先の防府を出発、7月10日吉田郡山城西方多治比まで帰着した。孝心厚い隆元は67歳の高齢で、苦闘している父を想い、城中に入り休養をとることなく、ここに11歳になる嫡子幸鶴丸(輝元)を呼んで対面する。これが父と子の今生の別れとなった。
隆元は12日、佐々部式敷蓮華寺に到着、ここに滞在し、諸方より兵を部署して8月5日雲州鹿城攻めに出発する予定でした。
8月3日和智誠春(まさはる)の館(仁後城か)に招かれ饗応を受けたが、帰営の後、翌4日未明急逝した。享年41歳。
死因は、食傷とも毒殺ともいわれているが真相は不明である。後年、誠春と隆元に近侍した赤川元保は元就の嫌疑によって誅伐された。
後世、隆元火葬の地であるこの地に地元住民が石碑を建て、隆元の墓として香華を手向けている。
NHKの大河ドラマ「毛利元就」は放送が終りましたが、安芸高田市高宮町内には、元就時代の城跡が見られるのが10数か所あり、内4か所を市史跡として指定しています。又第2次郡山城攻略のため、石見路を通って吉田へ向った時の道「尼子道」が川根地域に伝わっています。
安芸高田市教育委員会高宮教育分室
車 中国自動車道高田ICから約15分
公共 JR三江線式敷駅から徒歩10分
安芸高田市高宮町佐々部 式敷地区
旧高田郡高宮町指定
昭和61(1986)年2月7日
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