原 敬
2004-11-04 | 人物
11月4日は「原 敬」の忌日。
1921年 のこの日、第19代首相 原 敬(はら たかし、通称はらけい)が東京駅で19歳の国鉄職員・中岡艮一に刺殺された 。
原 敬は、1856(安政3)年に盛岡市本宮の南部藩士族の家の次男として生まれる。苦学の末、明治9年(1876)司法省法学校に入学、1879(明治12)年に退学後、郵便報知新聞、大東日報の記者をつとめる。陸奥宗光にみとめられて、外務省入省を契機に官界へ転進。外務次官などを歴任。1897(明治30)年9月、官界から引退するが、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加。1902(明治35)年衆議院議員に初当選。以後連続当選8回。政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園内閣時代の立役者となる。1914(大正3)年第3代立憲政友会総裁。1918(大正7)年に寺内内閣が米騒動によって退陣後,首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎された。1884(明治17)年7月発布の華族令では、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5つの階級を作り、士族や平民でも特別の勲功のある者には、爵位を授けることにした。そして、、明治の功労者ではあるが身分の低かったものも貴族になった。しかし、原敬の祖父は盛岡南部藩の家老であり、武士階級の出であったが、20歳の時、分家独立にあたって士族の籍を抜けて、平民になっていた。爵位は、藩閥側が、お手盛りで制定したものであり、かれにとって爵位などは薩長藩閥のこけおどし的権威と見て死ぬまで嫌悪していたようである。貴族になると、国民の代表である衆議院議員にはなれない。国会での施政方針演説で、「自分」のことをそれまでの首相は「本官」などと言っていたのを「私は」と言ったのも、原敬首相が最初だそうだ。原の政治原理は民意の多数を利した政党が内閣を作り、政策を実施すべきもので、閥族の指名による内閣を否定。日本における政党政治の第一歩を記した人物として有名である。しかし,社会主義運動を弾圧したり,普通選挙法は時期尚早として、地租3円を有権者とする制限選挙で国会に政友会の絶対多数を実現するなど、強硬な政策をつづけ,経済政策に十分な対応はできず、1921(大正10)年11月、19歳の国鉄職員に東京駅で暗殺されたのである。 因みに、日本で、国勢調査を始めたのは、原敬が首相の時であり、刺殺される1年前のことである。(第1回国勢調査は、大正9年10月1日)
参考:
日本国会図書館
http://www.ndl.go.jp/index.html
原 敬
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O340C200.HTM
原敬アラカルト
原敬にまつわるいろいろなお話
http://www.ictnet.ne.jp/~sibarei/page004.html
1921年 のこの日、第19代首相 原 敬(はら たかし、通称はらけい)が東京駅で19歳の国鉄職員・中岡艮一に刺殺された 。
原 敬は、1856(安政3)年に盛岡市本宮の南部藩士族の家の次男として生まれる。苦学の末、明治9年(1876)司法省法学校に入学、1879(明治12)年に退学後、郵便報知新聞、大東日報の記者をつとめる。陸奥宗光にみとめられて、外務省入省を契機に官界へ転進。外務次官などを歴任。1897(明治30)年9月、官界から引退するが、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加。1902(明治35)年衆議院議員に初当選。以後連続当選8回。政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園内閣時代の立役者となる。1914(大正3)年第3代立憲政友会総裁。1918(大正7)年に寺内内閣が米騒動によって退陣後,首相となり、歴代の士族出身の首相に代わる、日本初の平民宰相として国民に歓迎された。1884(明治17)年7月発布の華族令では、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5つの階級を作り、士族や平民でも特別の勲功のある者には、爵位を授けることにした。そして、、明治の功労者ではあるが身分の低かったものも貴族になった。しかし、原敬の祖父は盛岡南部藩の家老であり、武士階級の出であったが、20歳の時、分家独立にあたって士族の籍を抜けて、平民になっていた。爵位は、藩閥側が、お手盛りで制定したものであり、かれにとって爵位などは薩長藩閥のこけおどし的権威と見て死ぬまで嫌悪していたようである。貴族になると、国民の代表である衆議院議員にはなれない。国会での施政方針演説で、「自分」のことをそれまでの首相は「本官」などと言っていたのを「私は」と言ったのも、原敬首相が最初だそうだ。原の政治原理は民意の多数を利した政党が内閣を作り、政策を実施すべきもので、閥族の指名による内閣を否定。日本における政党政治の第一歩を記した人物として有名である。しかし,社会主義運動を弾圧したり,普通選挙法は時期尚早として、地租3円を有権者とする制限選挙で国会に政友会の絶対多数を実現するなど、強硬な政策をつづけ,経済政策に十分な対応はできず、1921(大正10)年11月、19歳の国鉄職員に東京駅で暗殺されたのである。 因みに、日本で、国勢調査を始めたのは、原敬が首相の時であり、刺殺される1年前のことである。(第1回国勢調査は、大正9年10月1日)
参考:
日本国会図書館
http://www.ndl.go.jp/index.html
原 敬
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O340C200.HTM
原敬アラカルト
原敬にまつわるいろいろなお話
http://www.ictnet.ne.jp/~sibarei/page004.html