今日(11月26日)は、第43代横綱: 吉葉山 潤之輔の忌日。
1929(大正9)年4月3日、北海道厚田郡厚田村安瀬村の漁村に生まれる 。本名は池田 潤之輔 。1938(昭和13)年に上京、高嶋部屋に弟子入り。その年盲腸で入院、吉葉庄作博士に助けられ、吉葉山と名乗る。
1942(昭和17)年5月場所、幕下筆頭で優勝、十両入りを決めたが、この年、召集され北支に転戦。1947(昭和22)年5月に復帰するまで5年間ものブランクができ、一時は戦死も伝えられた。彼にとって、22歳から26歳までの最も力のつく時期に兵隊にとられたのは本当に痛かっただろう。
1954(昭和29)初(1月)場所、初日から順当に勝ち進み、千秋楽、横綱鏡里を堂々の寄り切りに破り、15戦全勝で初優勝を遂げた。朝から続く大雪の中行われた優勝パレードは語り草となっている。そして、この年3月横綱に昇進 した。
しかし、悲運の男が、横綱昇進をした時は既に33歳9ヶ月の晩成であった。新横綱昇進の1954(昭和29)年3月場所を腎臓病と糖尿病で全休したのを始め、その後、怪我や病気に悩まされ、横綱昇進から6場所で皆勤したのは1場所だけ。1955(昭和30)年9月場所以後の4年間は綱を張りながらも、さほど目立った活躍もなく1958(昭和33)年1月場所中に引退した。
大関時代、実力第一人者として、一時は栃錦と「吉・栃」と並び称される時代もあり、その地力はかなりのものであったようだが、実績の上では優勝は1回に過ぎない。今、星取表だけ見ると、とてもそんなに高い評価を受けた力士には思えないのだが、この時代、美男横綱で地力もあり、その悲劇性ある土俵歴から人気は非常に高かった。
在位17場所中皆勤9場所で優勝もなかったが、伸び盛りの時期に召集されたのと脱臼や捻挫といった足の負傷が、悲運の横綱となった原因といえ、もし、兵役がなければ、横綱としても偉大な成績を残していたかも知れない。兎に角、凄い美男子で私も大ファンであった。
参考:
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19471102.htm
1929(大正9)年4月3日、北海道厚田郡厚田村安瀬村の漁村に生まれる 。本名は池田 潤之輔 。1938(昭和13)年に上京、高嶋部屋に弟子入り。その年盲腸で入院、吉葉庄作博士に助けられ、吉葉山と名乗る。
1942(昭和17)年5月場所、幕下筆頭で優勝、十両入りを決めたが、この年、召集され北支に転戦。1947(昭和22)年5月に復帰するまで5年間ものブランクができ、一時は戦死も伝えられた。彼にとって、22歳から26歳までの最も力のつく時期に兵隊にとられたのは本当に痛かっただろう。
1954(昭和29)初(1月)場所、初日から順当に勝ち進み、千秋楽、横綱鏡里を堂々の寄り切りに破り、15戦全勝で初優勝を遂げた。朝から続く大雪の中行われた優勝パレードは語り草となっている。そして、この年3月横綱に昇進 した。
しかし、悲運の男が、横綱昇進をした時は既に33歳9ヶ月の晩成であった。新横綱昇進の1954(昭和29)年3月場所を腎臓病と糖尿病で全休したのを始め、その後、怪我や病気に悩まされ、横綱昇進から6場所で皆勤したのは1場所だけ。1955(昭和30)年9月場所以後の4年間は綱を張りながらも、さほど目立った活躍もなく1958(昭和33)年1月場所中に引退した。
大関時代、実力第一人者として、一時は栃錦と「吉・栃」と並び称される時代もあり、その地力はかなりのものであったようだが、実績の上では優勝は1回に過ぎない。今、星取表だけ見ると、とてもそんなに高い評価を受けた力士には思えないのだが、この時代、美男横綱で地力もあり、その悲劇性ある土俵歴から人気は非常に高かった。
在位17場所中皆勤9場所で優勝もなかったが、伸び盛りの時期に召集されたのと脱臼や捻挫といった足の負傷が、悲運の横綱となった原因といえ、もし、兵役がなければ、横綱としても偉大な成績を残していたかも知れない。兎に角、凄い美男子で私も大ファンであった。
参考:
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ)
http://www.fsinet.or.jp/~sumo/profile/1/19471102.htm