今日(11月7日)は「知恵の日」
朝日新聞社が1988(昭和63)年、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に制定。
色んな知識を身につけるための辞書に敢えて、「知恵」と言う名前を使っているのが好きである。今、全国平均の「大学進学率」は、平成13年現在、45.6%となっている。つまり、今の時代、2人に1人は大学を出ており、これが、高学歴社会と言われている所以であろう。
しかし、養老孟司氏が若いころ、近所のおばあさんに「これからどうするの?」と聞かれ「大学へ行く」と答えたところ、「ふ~ん、大学行くと馬鹿になるよ」と言われたそうだが、このようなことは昔から、よく言われていたことであり、私も、最近、今の人はなんて馬鹿なんだろう、学歴もない昔の人の方が余程、賢かったように思われる時が多々ある。
それは、「知識」のあることが、「知恵」のあることには,通じないからだろう。むしろ、なまじっかの、知識(特に詰め込み教育による知識)を身につけ、自分が賢くなったと勘違い(ドクサ=思い込み)している人が増え、知識はないが、社会経験などの中から体験的に「知恵」を身につけた人達より目立ってきたからではないか。
このようなことを書いていると、どうしても、あの、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスのことを、思い出す。アポロンの宣託を通じてもっとも知恵者とされたソクラテスは、世間で賢いといわれている人を片っ端から歴訪して歩き、世間で賢いといわれている人ほど、人間が人間であるのに不可欠の「知恵」を欠いている点で決定的に無知であるのに、自分を「賢い」とうぬぼれているが、自分は無知であるという点では、全くその人たちと変わりがないものの、自分が「無知であることを自覚」している点で、彼らよりもいくらかましであることに気がづく。
学んで知識を身につけることは良い事だ。その学んで得た知識がその人の生き方の中で生きて使われ、学んだ通りに行動できる。これが賢いということであろう。そして、彼の最も重視した概念は、人間が生きていくのに最も大切なもの、それは、「徳」であり、徳が智である、徳を実践する・・・これが賢い生き方であるということであろう。
最近は、ゆとり教育などと言うものがもてはやされているが、その結果、ゆとり教育による学力低下が見られ、ついには、日本の小学四、五年生の4割が地動説を知らないと言う恐ろしい調査結果がでていた。
これは大変な事である、学力低下と引き換えに「ゆとり」を得るのが「ゆとり教育」ではない。学校の勉強ができても馬鹿な奴は馬鹿。勉強などできなくても賢い奴は賢いのです。どんな立派な大学を出ても学んだことを使えない者は世の中にいくらでもいる。しかし、生きていく上で生きた知識は必要である。学力なんて言う学校でしか使わない知識の詰め込みではなく、人が生きていくうえで、知識をどのように使うかを知らしめることが大事なことなのではなかろうか。
※広辞苑より
◎知識・智識
(1)【仏】(イ)物事の正邪などを判断すること。(ロ)善知識、有徳の賢者(2)ある事物に関する明瞭な意識(3)知っている内容、知られている事物。(4)認識によって得られた成果。広義では、事物に関する個個の断片的な事実的・経験的認識の意、厳密な意味では、原理的、統一的に組織づけられ、客観的妥当性を要求しうる判断の体系。(5)知古、知り。(6)物知り。
◎知恵・智慧
(1)ものごとの理をさとり、是非善悪を弁別する心の作用。物事を思慮し、計画し、処理する力。(2)【仏】(イ)六波羅蜜の一。事理を照見して正邪を分別する心の作用。(ロ)「慧」はえらぶ「智」は決断の意。また、世間のことを知るを「智」、仏法を解了するを「慧」。(3)四つの主徳の一つ。古代ギリシャ以来、哲学者によって、さまざまな意味を与えられているが、今日では、一般的に科学的知識ともまた、一時的功利的目的と結びつく利口さとも異なる、人生の指針となるような、人格と深く結びついている実践的知識をいう。
◎ばか「馬鹿・莫迦」
(梵語moha、慕何、即ち痴の意、又は、mahallaka,魔訶羅、無知の意からか、「馬鹿」は当て字。)(1)おろかなこと、又 、その人。愚。愚人。あほう。(2)つまらぬこと。無益なこと。
◎おろか「愚」
(一説に「おろ」は大雑把の意の「あら」と同義。)(1)知能、理解力が乏しいこと。(2)程度が劣ること。(3)ばかげていること。
資料:文部省大臣官房調査統計課「学校基本調査報告書」
朝日新聞社が1988(昭和63)年、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に制定。
色んな知識を身につけるための辞書に敢えて、「知恵」と言う名前を使っているのが好きである。今、全国平均の「大学進学率」は、平成13年現在、45.6%となっている。つまり、今の時代、2人に1人は大学を出ており、これが、高学歴社会と言われている所以であろう。
しかし、養老孟司氏が若いころ、近所のおばあさんに「これからどうするの?」と聞かれ「大学へ行く」と答えたところ、「ふ~ん、大学行くと馬鹿になるよ」と言われたそうだが、このようなことは昔から、よく言われていたことであり、私も、最近、今の人はなんて馬鹿なんだろう、学歴もない昔の人の方が余程、賢かったように思われる時が多々ある。
それは、「知識」のあることが、「知恵」のあることには,通じないからだろう。むしろ、なまじっかの、知識(特に詰め込み教育による知識)を身につけ、自分が賢くなったと勘違い(ドクサ=思い込み)している人が増え、知識はないが、社会経験などの中から体験的に「知恵」を身につけた人達より目立ってきたからではないか。
このようなことを書いていると、どうしても、あの、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスのことを、思い出す。アポロンの宣託を通じてもっとも知恵者とされたソクラテスは、世間で賢いといわれている人を片っ端から歴訪して歩き、世間で賢いといわれている人ほど、人間が人間であるのに不可欠の「知恵」を欠いている点で決定的に無知であるのに、自分を「賢い」とうぬぼれているが、自分は無知であるという点では、全くその人たちと変わりがないものの、自分が「無知であることを自覚」している点で、彼らよりもいくらかましであることに気がづく。
学んで知識を身につけることは良い事だ。その学んで得た知識がその人の生き方の中で生きて使われ、学んだ通りに行動できる。これが賢いということであろう。そして、彼の最も重視した概念は、人間が生きていくのに最も大切なもの、それは、「徳」であり、徳が智である、徳を実践する・・・これが賢い生き方であるということであろう。
最近は、ゆとり教育などと言うものがもてはやされているが、その結果、ゆとり教育による学力低下が見られ、ついには、日本の小学四、五年生の4割が地動説を知らないと言う恐ろしい調査結果がでていた。
これは大変な事である、学力低下と引き換えに「ゆとり」を得るのが「ゆとり教育」ではない。学校の勉強ができても馬鹿な奴は馬鹿。勉強などできなくても賢い奴は賢いのです。どんな立派な大学を出ても学んだことを使えない者は世の中にいくらでもいる。しかし、生きていく上で生きた知識は必要である。学力なんて言う学校でしか使わない知識の詰め込みではなく、人が生きていくうえで、知識をどのように使うかを知らしめることが大事なことなのではなかろうか。
※広辞苑より
◎知識・智識
(1)【仏】(イ)物事の正邪などを判断すること。(ロ)善知識、有徳の賢者(2)ある事物に関する明瞭な意識(3)知っている内容、知られている事物。(4)認識によって得られた成果。広義では、事物に関する個個の断片的な事実的・経験的認識の意、厳密な意味では、原理的、統一的に組織づけられ、客観的妥当性を要求しうる判断の体系。(5)知古、知り。(6)物知り。
◎知恵・智慧
(1)ものごとの理をさとり、是非善悪を弁別する心の作用。物事を思慮し、計画し、処理する力。(2)【仏】(イ)六波羅蜜の一。事理を照見して正邪を分別する心の作用。(ロ)「慧」はえらぶ「智」は決断の意。また、世間のことを知るを「智」、仏法を解了するを「慧」。(3)四つの主徳の一つ。古代ギリシャ以来、哲学者によって、さまざまな意味を与えられているが、今日では、一般的に科学的知識ともまた、一時的功利的目的と結びつく利口さとも異なる、人生の指針となるような、人格と深く結びついている実践的知識をいう。
◎ばか「馬鹿・莫迦」
(梵語moha、慕何、即ち痴の意、又は、mahallaka,魔訶羅、無知の意からか、「馬鹿」は当て字。)(1)おろかなこと、又 、その人。愚。愚人。あほう。(2)つまらぬこと。無益なこと。
◎おろか「愚」
(一説に「おろ」は大雑把の意の「あら」と同義。)(1)知能、理解力が乏しいこと。(2)程度が劣ること。(3)ばかげていること。
資料:文部省大臣官房調査統計課「学校基本調査報告書」