今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

歌舞伎座

2004-11-21 | 歴史
1889(明治22)年の今日(11月21日)は、東京・木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場した日。
今、歌舞伎座の建っている東銀座は、昭和26年までは木挽町といい、銀座ではなかった。江戸時代、歌舞伎は最大の大衆娯楽であったが、このような歌舞伎小屋は日本橋など江戸城城下に多くあった。大衆に大変な人気があり、人が大勢集まり、庶民に大きな影響力があった為、1842(天保13)年水野忠邦による『天保の改革』により、浅草へ強制移転させ、監視をする為、芝居の興行を官許制にし、江戸においての興行は中村座(堺町から移転)、市村座(葺屋町から)、森田座(木挽町から)の三つに限り、これを江戸の「三座制」といった。以降、歌舞伎の興行を許可なく、むやみに出来ないようにしたのである。しかし、歌舞伎はこれらの三座のみで行われていたわけではなく、この他にも、市谷八幡、芝神明、湯島天神など寺社の境内や浅草・両国などにある宮地芝居や小規模の芝居小屋はあったらしいが、ともかく、この三座制は、1,982(明治5)年まで続いたという。
歌舞伎座は、その約半世紀後の明治22年、演劇改良を主張する福地源一郎の主唱によって創設された。この時の建物は洋風デザインの木造作りで、内部は伝統的な和風の建物であった。11月21日の柿落しには、明治の三大名優と謳われた”團菊左”、九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次が揃って出演したという。
その後、明治44年に、歌舞伎座は純日本式の宮殿風に大改築したが、この改築はこの年3月に、東京丸の内に建てられた純洋風の帝国劇場に刺激されてのことであった。そして、大正時代に入ると、新興の帝劇や関西から進出してきた松竹合名社の勢力に押され気味だったが、大正4年には松竹の経営するところとなった。
1921(大正10年)10月に失火で全焼した為、1923(大正13)年12月に建て替えられた建物は、岡田信一郎が初めて手掛けた和風の鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築であり、奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛(ごうとうけんらん)の様式を伴わせたものであった。
敷地は東西50間(約91m)、南北45間(約82m)、延建坪3,606坪7合(約11,930平方メートル)、本館の屋根の高さ100尺(約30m)に達する。観客席は東西の桟敷席だけを畳敷にして次の間付の贅沢ななものにした他は、全部椅子席で冷暖房完備。舞台間口は15間、廻り舞台の直径60尺(約18m)で、世界的にも珍しい蛇の目廻しとなっていた。照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場であり、岡田信一郎の代表作のひとつに数えられている名建築である。大正14年1月6日、華々しく開幕した。
しかし、太平洋戦争時、空襲で、屋根が落ち、客席など内部も全焼し、戦後しばらく廃墟状態であったが、昭和24年から25年にかけて大がかりな改修工事を行い再建された。外観は、戦前の歌舞伎座を踏襲して奈良及び桃山の優雅な味と近代性を持たせているが、中央に高く聳えていた大屋根は姿を消したものの、左右の破風がその威容を誇っている。
歌舞伎の興行では、昔から、先代の名籍を受け継ぐ形での襲名披露興行などが行われていますよね~。それは、江戸三座制の名残で、官許が中村勘三郎(中村座)・市村羽左衛門(市村座)・森田勘弥(森田座)の個人の名義に対して出されおり、官許を得たものが、それぞれ権利を持つ座元となり、小屋を建てて興行していた。つまり、官許が、人間でなく名前に出されたものなので、名前を継ぐ(世襲制)ことで権利を受け継ぎ、興行が行われてきたと言うことなのでしょうね~。
それと、大正の頃は、劇場間の俳優の融通も比較的自由になり、歌舞伎座にも他の劇場座付きの俳優も多く出演しているが、松竹が経営にあたるようになってからは、さらに顕著になった。
新劇女優の草分け松井須磨子(大8・1歿)も、『復活』の中で歌った「カチューシャの歌」が大流行した全盛期の、大正3年8月には歌舞伎座に出演し、ズーデルマンの『マグダ』などを演じたことがあったそうだ。
経営の主体は、従来の歌舞伎座株式会社が昭和6年4月には松竹興行株式会社に併合され、昭和12年4月からは松竹の組織が松竹株式会社に変わった。
年間を通じて、顔揃いの大歌舞伎を中心に、ときには中堅・若手の公演や新派公演なども交えながら、興行を打ち続けるという方針に変わりはなかった。戦後の昭和30年頃になると劇界は、歌舞伎と新派、あるいは新劇・映画界というような異なるジャンルの俳優が共演する、交流の現象が目立ち始めていた。昭和35年10月、歌舞伎座では、本公演で松緑主演の『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演、新しい演劇制作と観客の開拓に、大きな冒険を試みている。また、7月には歌手を中心にした興行を試みて成功したが、これは翌年から恒例になった三波春夫公演をはじめ、歌手や映 画スターを主軸にした興行の先駆になっている。昭和40年には、歌舞伎が重要無形文化財として総合指定され、伝統歌舞伎保存会が発足している。
(画像は、大正13年に岡田信一郎により建設された当時の歌舞伎座)
参考:
歌舞伎座ホームページ
http://www.kabuki-za.co.jp/
江戸三座
http://www.asahi-net.or.jp/~FJ9M-ISGR/edotokyo/f_sanza.html
建築家別建物インデックス岡田信一郎」(1883-1932)―東京の近代建築―
http://members.aol.com/nk10jo/kiko1/tokin/tokin13.html