今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

メーデー

2005-05-01 | 記念日
今日(5月1日)は「メーデー」
1884年明治17)年5月1日にアメリカの各種労働団体が8時間労働実現のためのストライキ、デモ行進を行うことを決議し、1886(明治16)年、第1回を敢行したことに始まる。1889(明治22)年の第二インターナショナル創立大会で5月1日を国際的な労働者の祭典・万国労働者団結の日と定めた。翌1890(明治23)年に第1回メーデーが開催された。
日本では、1905(明治38)年、平民社がメーデー茶話会を開いたのが最初とされ、その後、1918(大正7)年、東京で社会主義者が小集会を開き、1920(大正9)年に、在京18労働団体によって、最初(第1回)のメーデーが、上野公園で行われた。その後全国に広がり第16回まで毎年行われたが次第に軍国主義の風潮が高まり、1936(昭和11)年には、2.26事件を理由に開催は禁止され、以後、敗戦までメーデーは行われなかった。
しかし、本来のメーデーは古代からヨーロッパで受け継がれている五月祭、つまり春の祭典だった。古代ヨーロッパは多神教で、季節の節目ごとに儀式が行われ、1年は11月1日に始まり、そこから半年後にあたる5月1日を区切りにして、2つに大別されていた。そして、11月1日の前日にあたる10月30日には悪霊を祓うために現在でも一般的な「ハローウィン」が行われ、5月1日は春の訪れを祝うメーデーの儀式が行われていたそうだ。この祭りでは、花の冠を被らせて「5月の女王(May Queen)」を仕立て、遊戯等して楽しむ日だったそうだが、元来異教徒の祭りに由来し、異性との性交渉を奨励するような意味を持っていたため、17世紀にキリスト教により全面的に禁止された。しかし、伝統を守る人々の思いは強く、性的な意味合いを弱め、ダンスや供花、ゲーム、かがり火といった伝統だけを残して楽しむ日になったようだ。このことは以下参考のMay Day が非常に詳しいので見てください。
敗戦直後の1946(昭和21)年、1935年(昭和10)年を最後に中断されていたメーデーが11年ぶりに復活。東京では皇居前広場に50万人が集まった(5月1日)という。戦後この時期の食糧難は深刻であり、このときは「米飯獲得」をスローガンに掲げて行われている。皇居前(この頃は人民広場といわれた)には教師に引率された小学生も多く参加し、給食復活などを訴えたという。また、「朕はタラフク食ってるぞ」と食料メーデーでのプラカードで批判された天皇は終戦時以来再びNHKのラジオのマイクの前に立ち、「相扶(たす)け食糧難克服を」「家族国家のうるわしい伝統に生き、難局克服を期待する」などと国民に訴える言葉を述べた(5月22日)と言う。(朝日クロニカルより)
日本の主権回復後の1952(昭和27)年5月1日の第23回メーデーでは、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約への抗議も主張に含まれた。皇居前広場の使用禁止のもとで明治神宮外苑広場での集会後、デモ隊は、「人民広場奪還」を合言葉に皇居前広場へ向かい5000人のデモ隊が約同数の警官隊と激突し大乱闘となった。デモ隊に催涙ガスが打ち込まれ、ついにはピストルまで発砲された。GHQの後ろ盾を失い弱体化した政府とそこを突くことで日本の社会変革を目指す革新勢力の力と力の対決といったものとなった。完全武装した警官隊に力で押さえつけら労働者2名が殺され、多数が負傷した。(「血のメーデー」事件)。メーデーが活発だったのはこのころまでだろうか。その後、労働組合組織の分裂に伴い、分裂開催が定着した。さらに労働組合活動が低調になり、前後がゴールデンウィークで長期休暇を取る例が増えてきたため参加者数が減少してきた。このため連合系メーデーは2001年以降4月28日や4月29日に行われるようになった。
今年の、連合のスローガンは「平和がなければ労働運動はできない」ということから「自由で平和な世界をつくろう」だという。
思い出せば、私が社会人になった昭和30年代初め、会社の古参社員が、夕刻同僚と誘い合わせて、こそこそとどこかへ集まっているようであった。新入社員の私には誰からも誘いがなかったが、それが、労働組合の結成であったことが後でわかった。工業ではなく商業系の保守的な会社であったので組合結成が他より遅れていたのだろう。この当時大阪では、中之島で集会をしていた。私は、デモには参加をしたことがないので、デモのことはよくわからない。そういえば、当時、「メーデー歌」があった。
聞け万国の労働者
とどろきわたるメーデーの
示威者(しいしゃ)に起る足どりと
未来をつぐる鬨(とき)の声・・・
懐かしく、なかなかいい曲だが、今聞くと、内容的には、ちょっと陳腐化しているかも・・・。
しかし、当時は、デモも活発であったが、これは組合活動も活発だったからだ。高度経済成長とともに労働者も次第に、豊かになってくると、組合活動もおとなしくなり、デモもなんかお祭り騒ぎになってきたように思える。国鉄時代は激しい労働闘争をし、ストまでしていた今のJRも民営化してからはおとなしい。国鉄時代には労働闘争の中に「安全」運転の問題もあったように思うが・・・。先日、伊丹で大事故を起こした列車事故では、過密なダイヤ、速度アップ地上主義、計画的な運転手の育成をしていないなどの会側の営利致上主義や列車の制限速度違反に対する教育問題などが、原因に挙げられており、事故調査時、JR職員などから不満も上がっているが、どうして、今まで、こんなことが組合として、労働闘争のテーマーとして取り上げられなかったのだろう。JRの会社側の利益至上主義と管理責任は当然追及されなければならないが、そこに勤める職員も乗客の安全を守る義務があり、特に列車の運転上で、過密なダイヤが守りきれないのであれば、自分達のそして、最も大切なお客様である乗客の安全のためにも、組合員として会社側に改善案を提案し改善されないのであれば組合活動のテーマーに掲げて闘争をしてでも改善を要求していく責任があるのではないか。国鉄時代の親方日の丸時代には、丸生反対=生産性向上が事故につながるなどと反対して、ストまでしていた組合が、民営化した途端に、利益至上主義の会社と一緒になって、今度は、自分達の昇給やプライドのことばかり考え、お客様の安全を考えなくなった点では、会社だけでなく、その職員で構成された組合側にも責任はあると思う。
メーデーで、労働組合の団体が「自由で平和な世界をつくろう」などという平和主義者が掲げるような高尚なテーマを掲げるのも、結構ではあるが、それ以前に、もっと、それぞれの企業の組合員は、自分達の勤めている企業が、本当に、お客様の安全を守る努力をしているか、会社側と一緒になって、改善に取り組んでいるか?。やらなければならないことを、会社側に強く要求しているのか?見直すべきである。・・・今、会社も企業内組合双方が、平和ぼけして、一番大切なお客さまの安全を軽視しているのではないか。伊丹のJRの大惨事を教訓に、原点に返って、組合の問題、メーデーの意義などを見直して欲しいと痛切に思う。民間の会社が、こんな大惨事を起こしてしまえば、その莫大な補償費などで、会社経営がおかしくなり、結果として、自分達の待遇に跳ね返ってくるではないか。
(図は第23回メーデー「反戦独立」ポスター、1952年。法政大学大原社会問題研究所HPより借用)
参考:
May Day
http://www5b.biglobe.ne.jp/~toshie/study/event/04.html
連合 日本労働組合総連合会
http://www.jtuc-rengo.or.jp/new/
法政大学大原社会問題研究所OISR.ORG_戦後ポスター展
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/posterb/