今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ボクシング記念日,チャンピオンの日

2005-05-19 | 記念日
1952(昭和27)年の今日(5月19日)は、「ボクシング記念日,チャンピオンの日」
1952(昭和27)年5月19日、東京後楽園球場の特設リンクで、世界フライ級選手権をかけて世界チャンピオン、ダド・マリノ(米)と挑戦者・白井義男(しらい・よしお:当時28歳)が対決し、判定で、白井がマリノを破り、日本初のボクシングの世界チャンピオンとなった。その瞬間、球場は地響きがするような大歓声に沸き返った。又、試合終了と同時にリングに飛び出したトレーナーのディック・知念も白井を抱き上げてリングをはねまわったという。過去、白井はマリノと2度戦い、一勝一敗と星を分けていた。このとき、会場に詰め駆けたていた観衆は、約4万5千人。それだけ、この試合に国民は白井の勝利を期待していたのである。戦後の復興途上にあった日本、テレビはまだなかった。ラジオの生中継に聞き入っていた国民。日本人の白井がアメリカ人に勝ったことで日本中が沸きかえった。1949(昭24)年、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞、同年8月、ロサンゼルスで行われた水泳の全米選手権での古橋広之進選手の自由形世界新記録に次いで、敗戦でショックを受けた日本人の心に希望の灯をともしてくれた。この当時まだ、日本は、米軍を中心とした連合国軍(進駐軍)の統治下に置かれていた。その連合国軍を監督していたのがGHQ(連合国軍総司令部)であった。だが、白井の活躍の影には、白井の才能を見出し、5年間にわたり指導し、育て上げたてくれたGHQの職員アルビン・R・カーン博士(生物学者)がいたのである。国民にとって、広島・長崎に原爆を投下した米国人に、当時、まだ好感をもてる時代ではなかったが、皮肉にも、敗戦の痛手から立ち直れないでいた日本人に立ち直る為の勇気を吹き込んでくれたのも、カーン博士のような米国人だったのである。
当時の日本のボクシングでは、ボクサーと言うよりも、拳闘家と呼ばれていたように肉弾戦法そのものであった。ある時、偶然に、ジムで黙々と練習を繰り返す白井選手の鋭い左ジャブときれいなフットワークをみた、カーン博士は、白井に、科学的なトレーニングを取り入れたアウトボクシングを指導。徹底して左ジャブの練習をさせた。そして、白井選手を見事「拳闘家」から「ボクサー」へと変身させたのである。
世界王座を4度防衛した後、1954(昭和29)年11月、パスカル・ペレス(アルゼンチン)に敗れ無冠となり、翌年の再戦で敗れたのを機に引退。その後、財団法人日本ボクシングコミッション理事を勤め、1995(平成7)年秋、勲四等旭日小綬章を受章。2003(平成15)年12月26日逝去。
引退後、テレビなどでボクシングの試合の解説者として、またその他の場面で見かけた白井氏は、元ボクサーとは思えない本当に温厚で、柔和な顔をした紳士といった感じの人でしたね~。あんな温和な人のどこから、あのようなファイトが出てくるんでしょう。内に秘めたる精神力と闘士。男はこうじゃなけりゃ~。『男が男らしく』ありたいと思った時代の男である。近頃は、悪いことをするにしても、弱いものばかりを相手にいじめたり、騙したりする、卑劣で軟弱な男が増えたね~。これも戦後、『男が男らしく』などと言おうものなら『それはどういうことですか!・・・』などとすぐ突っかかってくる人たちの教育のせいだと思うのだが・・・。
(画像はダド・マリノを破り観衆に手を振る白井義男とアルビン・カーン博士。週間朝日百科『日本の歴史」より)
参考:
「思い出の名勝負」特集 日本のボクシングを築きあげたスター
http://mihasi.tripod.com/sirai/sirai.htm
nikkansports.com > スポーツTOP > 新弥のDAYS'
http://www.nikkansports.com/ns/sports/goto/2004/goto040115.html