今日(5月27日)は、「百人一首の日」
1235(文暦2)年の今日、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。
藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられているそうだ。
百人一首とは、百人の歌人の歌を、一人一首ずつ選んでまとめた撰集で、『古今集』以降の10種類の和歌集から撰出されている。 百人一首には、『小倉百人一首』の他に、『源氏百人一首』、『後撰百人一首』、『女房百人一首』などがあるそうだが、通常、は百人一首と言えば『小倉百人一首』の事を言っている。それは、撰者である藤原定家が小倉山荘において、天智天皇から順徳院まで百人の歌人の秀歌を各一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫(きごう=文字や書画を書くこと)したことから山荘の名をとって『小倉百人一首』と呼ばれる様になった。
鎌倉時代の歌仙秀歌集である『小倉百人一首』を、日本人が子供の頃からお正月のかるた遊びとして馴染んできたのは、それが”歌かるた”として用いられたからで、その原形は、室町時代に公家の間で、細長い紙に上の句と下の句をそれぞれ一行に書き、それを縦半分に切って混ぜ合わせ、歌を合せて遊んだことにあり、後に厚紙に代わって蛤貝が用いられ、貝覆という遊びになり、これが町家にも流行した。それが、足利時代末期に、ポルトガル人によりカルタが伝えられ、これが伝統的な貝覆の遊びと結びついて歌かるたが生まれたといわれているそうだ。そして、元禄の頃には木版刷りの安価な百人一首かるたが出回るようになり、庶民の間にも『百人一首』が急速に浸透していった。それを、萬朝報社の社長であった黒岩涙香(くろいわるいこう)が明治37年に総ひらがなの現在の標準かるたを考案し、2月に萬朝報社主催の第一回公式かるた大会を東京で開いた。現在は全日本かるた協会主催で、競技かるた大会が毎年開かれている。
戦後、私達がまだ子供の頃は、毎年、正月になると「百人一首」のかるた取りをしていた。他に「いろはかるた」もあるが、これは、小学校の低学年までだ。大きくなって、百人一首のかるた取りに強いことはちょっとしたステータスのようなものだった。よく意味も分らないまま一生懸命丸暗記をしたのを思い出すが、これには他にも理由があった。それは学校の古典の勉強や試験などにも良く使われたからである。私は、暗記力が弱いのでなかなか覚えられなく苦労したが、5歳も年下の妹など、小学生の頃に意味も分らないまま殆ど覚えていたよ。確かに、百人一首は、日本人にとって馴染み深い五七調で、それぞれ短いため覚えやすい。短い中にも、さまざまな重要単語、枕詞、掛詞、係り結び、古典仮名遣い、助動詞が遣われていて、古典の教材にはもってこいである。
ただ、この『百人一首』は秀歌撰というものの、果たしてこの百首が、和歌の黄金時代であった当時の『古今集』から『新古今集』の頃までの代表歌百撰といえるのかどうか、定家の歌や歌人の撰び方については昔より疑問のあるところであった。そして、そのことは、定家自信が、百人一首の姉妹篇にあたる百人秀歌(1951年に発見された)につけられた「奥書(おくがき)」に、「上古からの歌仙の歌を一首ずつ、思い出すままに書いたが、この中には、歌の名人と誇れ高い人の秀逸な歌といわれているものが、ほとんど漏れている。けれども、どの歌を用い、どの歌を捨てたかの選択基準は私の心の中にある。ほかの人間がいろいろと非難することは意味のないことだろう」といった意味のことを書いており、この歌集の歌の撰択の仕方について後世の人々が必ず疑念を抱くだろうということを、あたかも予想している。この歌集が普通の歌集とはちがった、ある特殊な意図のもとに編纂されたものだということが、定家自身によってはっきりと語られていたというのである。
そして、その謎の背景には、百人一首にある後鳥羽院の有名な和歌、
「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」
と、定家の自撰歌
「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」
に隠されているという。詳しいことは、以下参考の林直道の百人一首の秘密、「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景などに記されているのでここでは詳しいことは省略する。
結論から言うと、定家の歌の「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずるという。
百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びついてしまう。そして、その合わせ言葉を絵に置き換えていくと、何とそこには…秘められた『水無瀬絵図』が現れるという。定家は全知を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのである。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもある。承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していった。定家は自分を引き立ててくれた恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのだろうというのである。
承久の乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く、第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。その無念の思いが、後鳥羽院の「人も惜し」の歌を載せた「百人一首」の成立につながると言うのである。この辺の事情は、下記の参考のHPが詳しい。又、以下参考の長岡京・小倉山荘の水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がり、水無瀬絵図と「合わせ言葉」がどのようになっているのかが、よくわかる。秘められた百人一首の謎を知ることで、又一段と小倉百人一首に興味を持てるようになるかも・・・。それにしても、昔の人のこのような文学に対する才能は、底が知れないね~。昔から今日まで、科学の進歩は目覚しいものの、このような文学に関しては、むしろ、衰退しているのではないだろうか・・・。
(画像は、小倉百人一首のかるた。右:後鳥羽院の歌。左:権中納言定家の歌)
参考:
長岡京・小倉山荘(京都せんべい・おかき専門店)
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin01.html
林直道の百人一首の秘密
http://www8.plala.or.jp/naomichi/index.html
院政期社会の言語構造を探る~拾遺 後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈~「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景
http://www.furugosho.com/inseiki/hitomooshi.htm
競技かるたのページ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/carta/cartaindex.htm
1235(文暦2)年の今日、藤原定家によって小倉百人一首が完成された。
藤原定家の「明月記」の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられているそうだ。
百人一首とは、百人の歌人の歌を、一人一首ずつ選んでまとめた撰集で、『古今集』以降の10種類の和歌集から撰出されている。 百人一首には、『小倉百人一首』の他に、『源氏百人一首』、『後撰百人一首』、『女房百人一首』などがあるそうだが、通常、は百人一首と言えば『小倉百人一首』の事を言っている。それは、撰者である藤原定家が小倉山荘において、天智天皇から順徳院まで百人の歌人の秀歌を各一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫(きごう=文字や書画を書くこと)したことから山荘の名をとって『小倉百人一首』と呼ばれる様になった。
鎌倉時代の歌仙秀歌集である『小倉百人一首』を、日本人が子供の頃からお正月のかるた遊びとして馴染んできたのは、それが”歌かるた”として用いられたからで、その原形は、室町時代に公家の間で、細長い紙に上の句と下の句をそれぞれ一行に書き、それを縦半分に切って混ぜ合わせ、歌を合せて遊んだことにあり、後に厚紙に代わって蛤貝が用いられ、貝覆という遊びになり、これが町家にも流行した。それが、足利時代末期に、ポルトガル人によりカルタが伝えられ、これが伝統的な貝覆の遊びと結びついて歌かるたが生まれたといわれているそうだ。そして、元禄の頃には木版刷りの安価な百人一首かるたが出回るようになり、庶民の間にも『百人一首』が急速に浸透していった。それを、萬朝報社の社長であった黒岩涙香(くろいわるいこう)が明治37年に総ひらがなの現在の標準かるたを考案し、2月に萬朝報社主催の第一回公式かるた大会を東京で開いた。現在は全日本かるた協会主催で、競技かるた大会が毎年開かれている。
戦後、私達がまだ子供の頃は、毎年、正月になると「百人一首」のかるた取りをしていた。他に「いろはかるた」もあるが、これは、小学校の低学年までだ。大きくなって、百人一首のかるた取りに強いことはちょっとしたステータスのようなものだった。よく意味も分らないまま一生懸命丸暗記をしたのを思い出すが、これには他にも理由があった。それは学校の古典の勉強や試験などにも良く使われたからである。私は、暗記力が弱いのでなかなか覚えられなく苦労したが、5歳も年下の妹など、小学生の頃に意味も分らないまま殆ど覚えていたよ。確かに、百人一首は、日本人にとって馴染み深い五七調で、それぞれ短いため覚えやすい。短い中にも、さまざまな重要単語、枕詞、掛詞、係り結び、古典仮名遣い、助動詞が遣われていて、古典の教材にはもってこいである。
ただ、この『百人一首』は秀歌撰というものの、果たしてこの百首が、和歌の黄金時代であった当時の『古今集』から『新古今集』の頃までの代表歌百撰といえるのかどうか、定家の歌や歌人の撰び方については昔より疑問のあるところであった。そして、そのことは、定家自信が、百人一首の姉妹篇にあたる百人秀歌(1951年に発見された)につけられた「奥書(おくがき)」に、「上古からの歌仙の歌を一首ずつ、思い出すままに書いたが、この中には、歌の名人と誇れ高い人の秀逸な歌といわれているものが、ほとんど漏れている。けれども、どの歌を用い、どの歌を捨てたかの選択基準は私の心の中にある。ほかの人間がいろいろと非難することは意味のないことだろう」といった意味のことを書いており、この歌集の歌の撰択の仕方について後世の人々が必ず疑念を抱くだろうということを、あたかも予想している。この歌集が普通の歌集とはちがった、ある特殊な意図のもとに編纂されたものだということが、定家自身によってはっきりと語られていたというのである。
そして、その謎の背景には、百人一首にある後鳥羽院の有名な和歌、
「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は」
と、定家の自撰歌
「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ」
に隠されているという。詳しいことは、以下参考の林直道の百人一首の秘密、「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景などに記されているのでここでは詳しいことは省略する。
結論から言うと、定家の歌の「松」は待つの掛け詞であり、「凪」は泣きに通ずるという。
百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びついてしまう。そして、その合わせ言葉を絵に置き換えていくと、何とそこには…秘められた『水無瀬絵図』が現れるという。定家は全知を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのである。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもある。承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していった。定家は自分を引き立ててくれた恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのだろうというのである。
承久の乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く、第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。その無念の思いが、後鳥羽院の「人も惜し」の歌を載せた「百人一首」の成立につながると言うのである。この辺の事情は、下記の参考のHPが詳しい。又、以下参考の長岡京・小倉山荘の水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がり、水無瀬絵図と「合わせ言葉」がどのようになっているのかが、よくわかる。秘められた百人一首の謎を知ることで、又一段と小倉百人一首に興味を持てるようになるかも・・・。それにしても、昔の人のこのような文学に対する才能は、底が知れないね~。昔から今日まで、科学の進歩は目覚しいものの、このような文学に関しては、むしろ、衰退しているのではないだろうか・・・。
(画像は、小倉百人一首のかるた。右:後鳥羽院の歌。左:権中納言定家の歌)
参考:
長岡京・小倉山荘(京都せんべい・おかき専門店)
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin01.html
林直道の百人一首の秘密
http://www8.plala.or.jp/naomichi/index.html
院政期社会の言語構造を探る~拾遺 後鳥羽院「人も惜し」歌の新たな文脈~「百人一首」の謎の解明/後鳥羽院の歌の背景
http://www.furugosho.com/inseiki/hitomooshi.htm
競技かるたのページ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/carta/cartaindex.htm