今日(7月1日)は、「童謡の日」
1918(大正7)年7月1日、児童雑誌「赤い鳥」が、児童文学者・鈴木三重吉により創刊されたことにちなんで、日本童謡協会が1984(昭和59)年に制定した記念日。 明治以来「富国強兵」を掲げてきた日本では、子どもは「お国のため」の存在であり、「安価な労働力」として働かされ、子どもが子どもらしく生きることは 難しいことだった。 こうした子供観に一大革命をもたらしたのが、大正7年に創刊された児童雑誌 「赤い鳥」だったといわれている。 編集主幹の鈴木三重吉は「子供の純性を保全開発する一大運動となさん!」と 宣言。「赤い鳥」は、それまでの堅苦しい“説話”や“唱歌”ではなく、子どもの言葉で子どもの世界を描いたわかりやすい童話・童謡の創作をめざした。そして、当時の日本を代表する一流の作家や詩人に呼びかけ、芥川龍之介、有島武郎、小川未明らの小説家に児童文学の筆をとらせる一方、北原白秋、西条八十、野口雨情らの詩への作曲を山田耕筰らに依頼し、今も親しまれている数多くの童謡を生み出してきた。
大正7年の童謡誕生から、昭和20年までに発表された童謡の中から、312編を集めた「日本童謡集」(岩波文庫 )によると、大正の8年間に発表された作品は実に204編で、これは、昭和の20年間に発表された作品の約2倍にものぼる。大正時代はまさに童謡の興隆期であり、戦前の日本の童謡の代表的なものは、ほとんどこの時代につくられたといえる。
「赤い鳥」の歴史的意義は、それまでの教訓的なお伽噺を文芸童話にまで高めたことだ。この運動は、「赤い鳥運動」と呼ばれた。
「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ 赤い 赤い実を食べた ・・・」
『赤い鳥小鳥』・・・この童謡は、この「赤い鳥」が産んだ童謡のうちの一つで、作詞は北原白秋、作曲が成田為三である。
極めてシンプルな歌詞であるが、「赤い実を食べたから赤い鳥になった」などという発想は、大の大人にはなかなかでてこない発想だよね。曲を作った、成田為三も、山田耕筰の門下生で「かなりや」(うたをわすれた、かなりやは~/西條八十作詞)などを作曲した人物として有名だよね。
ところで、「赤い鳥」というフォークグループがあったのを思い出す人も多いだろうね~。童謡などのように、誰にでも歌えるうたを目標に後藤悦治郎、平山泰代、山本俊彦、新居(山本)潤子、大川茂の関西出身の5人によって結成され、1970年にデビューしたこのグループは、「翼をください」や「竹田の子守唄」のヒットで知られていたが、このグループ名は鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」からとられたといわれている。メンバー間の音楽に対する考え方の相違から74年に解散。その後、後藤・平山夫婦の紙ふうせんと山本夫婦と大川のトリオによるハイファイ・セットに分れて活躍、現在に至っている。
兎に角、古くから歌い継がれてきた遊びの歌や子守歌などの「わらべうた」、明治時代に入ってからの堅苦しい教訓的な「唱歌」に対して、子ども本来の感覚や心に呼びかけることができる言葉や詩情を大切にしたうた「童謡」という分野が「赤い鳥運動」によって築かれた意義は大きい。
(画像は、児童雑誌「赤い鳥」大正13年11月号表紙 清水良雄画)
参考:
教育者について- 鈴木三重吉-
http://www.i-cube.co.jp/mirai/01winter/21century/
児童文学散歩 赤い鳥について
http://www.mars.dti.ne.jp/~ginka/sanpo/MEJIRO/Sanpo_AKAITORI.html
d-score 童謡 楽譜 年表
http://www.d-score.com/db/douyou
青空文庫(へ)提供 :-) 赤い鳥2002
青空文庫で読むことが出来る童話へのリンク集です。
http://www.jca.apc.org/~earthian/aozora/redwing.html
1918(大正7)年7月1日、児童雑誌「赤い鳥」が、児童文学者・鈴木三重吉により創刊されたことにちなんで、日本童謡協会が1984(昭和59)年に制定した記念日。 明治以来「富国強兵」を掲げてきた日本では、子どもは「お国のため」の存在であり、「安価な労働力」として働かされ、子どもが子どもらしく生きることは 難しいことだった。 こうした子供観に一大革命をもたらしたのが、大正7年に創刊された児童雑誌 「赤い鳥」だったといわれている。 編集主幹の鈴木三重吉は「子供の純性を保全開発する一大運動となさん!」と 宣言。「赤い鳥」は、それまでの堅苦しい“説話”や“唱歌”ではなく、子どもの言葉で子どもの世界を描いたわかりやすい童話・童謡の創作をめざした。そして、当時の日本を代表する一流の作家や詩人に呼びかけ、芥川龍之介、有島武郎、小川未明らの小説家に児童文学の筆をとらせる一方、北原白秋、西条八十、野口雨情らの詩への作曲を山田耕筰らに依頼し、今も親しまれている数多くの童謡を生み出してきた。
大正7年の童謡誕生から、昭和20年までに発表された童謡の中から、312編を集めた「日本童謡集」(岩波文庫 )によると、大正の8年間に発表された作品は実に204編で、これは、昭和の20年間に発表された作品の約2倍にものぼる。大正時代はまさに童謡の興隆期であり、戦前の日本の童謡の代表的なものは、ほとんどこの時代につくられたといえる。
「赤い鳥」の歴史的意義は、それまでの教訓的なお伽噺を文芸童話にまで高めたことだ。この運動は、「赤い鳥運動」と呼ばれた。
「赤い鳥 小鳥 なぜなぜ 赤い 赤い実を食べた ・・・」
『赤い鳥小鳥』・・・この童謡は、この「赤い鳥」が産んだ童謡のうちの一つで、作詞は北原白秋、作曲が成田為三である。
極めてシンプルな歌詞であるが、「赤い実を食べたから赤い鳥になった」などという発想は、大の大人にはなかなかでてこない発想だよね。曲を作った、成田為三も、山田耕筰の門下生で「かなりや」(うたをわすれた、かなりやは~/西條八十作詞)などを作曲した人物として有名だよね。
ところで、「赤い鳥」というフォークグループがあったのを思い出す人も多いだろうね~。童謡などのように、誰にでも歌えるうたを目標に後藤悦治郎、平山泰代、山本俊彦、新居(山本)潤子、大川茂の関西出身の5人によって結成され、1970年にデビューしたこのグループは、「翼をください」や「竹田の子守唄」のヒットで知られていたが、このグループ名は鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」からとられたといわれている。メンバー間の音楽に対する考え方の相違から74年に解散。その後、後藤・平山夫婦の紙ふうせんと山本夫婦と大川のトリオによるハイファイ・セットに分れて活躍、現在に至っている。
兎に角、古くから歌い継がれてきた遊びの歌や子守歌などの「わらべうた」、明治時代に入ってからの堅苦しい教訓的な「唱歌」に対して、子ども本来の感覚や心に呼びかけることができる言葉や詩情を大切にしたうた「童謡」という分野が「赤い鳥運動」によって築かれた意義は大きい。
(画像は、児童雑誌「赤い鳥」大正13年11月号表紙 清水良雄画)
参考:
教育者について- 鈴木三重吉-
http://www.i-cube.co.jp/mirai/01winter/21century/
児童文学散歩 赤い鳥について
http://www.mars.dti.ne.jp/~ginka/sanpo/MEJIRO/Sanpo_AKAITORI.html
d-score 童謡 楽譜 年表
http://www.d-score.com/db/douyou
青空文庫(へ)提供 :-) 赤い鳥2002
青空文庫で読むことが出来る童話へのリンク集です。
http://www.jca.apc.org/~earthian/aozora/redwing.html