今日(7月30日)は「明治最後の日」
1912(明治45)年、明治天皇の崩御により「大正」と改元された日である。
明治天皇の死と新天皇の即位は王の死とその継承、再生を意味する最大の国歌儀礼であった。この皇位継承儀礼は、死の直後の新天皇の践祚に始まり大喪儀(たいそうぎ=大喪)を経て、大正天皇の即位礼、大嘗祭まで3年4ヶ月にわたって繰り広げられた。これらの儀礼のうち、大喪儀は明治42年に定められた皇室服喪令の「大喪」の規定に拠っており、践祚、即位礼、大嘗祭は同年2月11日の紀元節に、帝国憲法発布20年を記念して制定された登極令(とうきょくれい)にしたがって挙行された。なお、大喪儀の次第については、当時規定がなかったため、明治30年に京都で行われた英照皇太后《孝明天皇妃夙子(あきこ)》の大喪儀を前例とし、これを拡充する形で営まれた。
明治45年7月30日午前零時43分、明治天皇が没すると、わずか17分後の午前1時から践祚の儀が行われた。大正天皇は、宮中正殿で践祚して、第123代の天皇となり、時を同じくして、皇太子妃節子(さだこ)の立皇后式がおこなわれた。践祚にあたり、神器の剣《草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の形代(かたしろ)》と《璽(じ)八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)》が、侍従によって明治天皇のもとから新天皇のもとに移された。宮中の賢所に祀られる鏡《八咫鏡(やたのかがみ)》と天皇の身辺に置く剣・璽からなる「三種の神器(じんき)」として歴代の天皇によって受け伝えられてきたが、旧皇室典範で、「祖宗(そそう)の神器」として始めて公的性格を与えられ、登極令で践祚にさいしての「剣璽渡御(けんじとぎょ)」が規定された。剣璽とともに、内大臣によって御璽(ぎょじ)と国璽(こくじ=天皇の印と国家の印)が新天皇のもとに移された。践祚と同時刻に、掌典長が奉仕して賢所で祭典が執行され、皇霊殿、神殿に践祚が奉告された。皇霊殿は天皇の祖先の神霊、神殿は天神地祇(てんじんちぎ)を祀る宮中の神社でともに明治前期に新たに作られ、賢所とあわせて宮中三殿と呼ばれる。同日、改元の詔が出て、大正への即日改元が行われた。大正改元は明治維新にさいして定められた、一世一元制による最初の改元であった。
明治天皇の死は、電報が即時にうたれて、そのあくる日、世界各地の新聞に出た。当時、日本人の力は明治天皇と結びつけて記憶されており、この時代には、他のどの日本人よりも、明治天皇は世界にたいして日本を代表する人物だった。帝国憲法と旧皇室典範(明治22年)を基本法とする近代天皇制国家は、政治、軍事の大権をもち国の最高祭司である現人神・天皇を絶対君主とし、皇位を原型として形づくられていた。そのため、皇位継承は、国家にとって最も重要な手続きであり、明治維新直後から、その儀礼が神道に基づいて整えられてきた。明治天皇の死に3年先立ってつくられた登極令は、神道形式による皇位継承儀礼の集大成だったのである。(週間朝日百科・日本の歴史より)
この日は、崩御した明治天皇を記念して、1913(大正2)年から1926(大正15)年まで祭日(「明治天皇祭」)になっていた。この、「明治天皇祭」は、1927(昭和2)年からは、1852(嘉永5)年9月22日の明治天皇の誕生日を太陽暦に換算した11月3日を「明治節」という祭日にした。そして、1946(昭和21)年、この「明治節 」は、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948(昭和23)年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日(文化の日)に定められ、今日に至っている。
因みに、元号は敗戦後、旧皇室典範と登極令が廃止され法的根拠がなくなった。元号の根拠となっていた旧皇室典範と登極令の廃止を受けて政府は1946年(昭和21年)、いったん元号法案を閣議決定したが、GHQに拒否された。現在の元号法(昭和54年法律第43号)は(1)元号は政令で定める(2)元号は皇位の継承があった場合に限り改める、の2項目によっている。
明治神宮外苑・聖徳紀念館には、明治天皇の御降誕~崩御まで奉納された80枚の壁画が飾られており、、明治天皇御在位の主要な歴史的出来事が全て判るようになっている。興味のある方は、明治神宮外苑へ行かれては・・・。私は。この80枚の中の40枚を持っており、いずれ、私のHPで40枚の絵葉書を公開したいと思っている。
(画像の左は、明治41年神戸沖で行われた海軍大演習記念絵葉書の「明治天応御影」抜粋分。何故か、これら絵葉書などには、明治天皇の写真による御影はなく、全て、絵で、描かれたものである。右は、明治神宮外苑・聖徳紀念館に飾られている絵の1枚「不豫」田邊至筆画である。)
参考:
旧皇室典範
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyukousityutennpann.htm
日本国憲法
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/kenpou/index.htm
元号について
http://www.nunochu.com/japan/gengo.html
1912(明治45)年、明治天皇の崩御により「大正」と改元された日である。
明治天皇の死と新天皇の即位は王の死とその継承、再生を意味する最大の国歌儀礼であった。この皇位継承儀礼は、死の直後の新天皇の践祚に始まり大喪儀(たいそうぎ=大喪)を経て、大正天皇の即位礼、大嘗祭まで3年4ヶ月にわたって繰り広げられた。これらの儀礼のうち、大喪儀は明治42年に定められた皇室服喪令の「大喪」の規定に拠っており、践祚、即位礼、大嘗祭は同年2月11日の紀元節に、帝国憲法発布20年を記念して制定された登極令(とうきょくれい)にしたがって挙行された。なお、大喪儀の次第については、当時規定がなかったため、明治30年に京都で行われた英照皇太后《孝明天皇妃夙子(あきこ)》の大喪儀を前例とし、これを拡充する形で営まれた。
明治45年7月30日午前零時43分、明治天皇が没すると、わずか17分後の午前1時から践祚の儀が行われた。大正天皇は、宮中正殿で践祚して、第123代の天皇となり、時を同じくして、皇太子妃節子(さだこ)の立皇后式がおこなわれた。践祚にあたり、神器の剣《草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の形代(かたしろ)》と《璽(じ)八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)》が、侍従によって明治天皇のもとから新天皇のもとに移された。宮中の賢所に祀られる鏡《八咫鏡(やたのかがみ)》と天皇の身辺に置く剣・璽からなる「三種の神器(じんき)」として歴代の天皇によって受け伝えられてきたが、旧皇室典範で、「祖宗(そそう)の神器」として始めて公的性格を与えられ、登極令で践祚にさいしての「剣璽渡御(けんじとぎょ)」が規定された。剣璽とともに、内大臣によって御璽(ぎょじ)と国璽(こくじ=天皇の印と国家の印)が新天皇のもとに移された。践祚と同時刻に、掌典長が奉仕して賢所で祭典が執行され、皇霊殿、神殿に践祚が奉告された。皇霊殿は天皇の祖先の神霊、神殿は天神地祇(てんじんちぎ)を祀る宮中の神社でともに明治前期に新たに作られ、賢所とあわせて宮中三殿と呼ばれる。同日、改元の詔が出て、大正への即日改元が行われた。大正改元は明治維新にさいして定められた、一世一元制による最初の改元であった。
明治天皇の死は、電報が即時にうたれて、そのあくる日、世界各地の新聞に出た。当時、日本人の力は明治天皇と結びつけて記憶されており、この時代には、他のどの日本人よりも、明治天皇は世界にたいして日本を代表する人物だった。帝国憲法と旧皇室典範(明治22年)を基本法とする近代天皇制国家は、政治、軍事の大権をもち国の最高祭司である現人神・天皇を絶対君主とし、皇位を原型として形づくられていた。そのため、皇位継承は、国家にとって最も重要な手続きであり、明治維新直後から、その儀礼が神道に基づいて整えられてきた。明治天皇の死に3年先立ってつくられた登極令は、神道形式による皇位継承儀礼の集大成だったのである。(週間朝日百科・日本の歴史より)
この日は、崩御した明治天皇を記念して、1913(大正2)年から1926(大正15)年まで祭日(「明治天皇祭」)になっていた。この、「明治天皇祭」は、1927(昭和2)年からは、1852(嘉永5)年9月22日の明治天皇の誕生日を太陽暦に換算した11月3日を「明治節」という祭日にした。そして、1946(昭和21)年、この「明治節 」は、平和と文化を重視した日本国憲法が公布されたことを記念して、1948(昭和23)年公布・制定の祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日(文化の日)に定められ、今日に至っている。
因みに、元号は敗戦後、旧皇室典範と登極令が廃止され法的根拠がなくなった。元号の根拠となっていた旧皇室典範と登極令の廃止を受けて政府は1946年(昭和21年)、いったん元号法案を閣議決定したが、GHQに拒否された。現在の元号法(昭和54年法律第43号)は(1)元号は政令で定める(2)元号は皇位の継承があった場合に限り改める、の2項目によっている。
明治神宮外苑・聖徳紀念館には、明治天皇の御降誕~崩御まで奉納された80枚の壁画が飾られており、、明治天皇御在位の主要な歴史的出来事が全て判るようになっている。興味のある方は、明治神宮外苑へ行かれては・・・。私は。この80枚の中の40枚を持っており、いずれ、私のHPで40枚の絵葉書を公開したいと思っている。
(画像の左は、明治41年神戸沖で行われた海軍大演習記念絵葉書の「明治天応御影」抜粋分。何故か、これら絵葉書などには、明治天皇の写真による御影はなく、全て、絵で、描かれたものである。右は、明治神宮外苑・聖徳紀念館に飾られている絵の1枚「不豫」田邊至筆画である。)
参考:
旧皇室典範
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyukousityutennpann.htm
日本国憲法
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/kenpou/index.htm
元号について
http://www.nunochu.com/japan/gengo.html