今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

藤ノ木古墳記念日

2005-09-25 | 記念日
今日(9月25日)は,「藤ノ木古墳記念日」
1985(昭和60)年9月25日、奈良県斑鳩町の法隆寺西南約350mにある藤ノ木古墳の横穴式石室内部で全面朱塗りの家形石棺が発見された。藤ノ木古墳は直径約48m、高さ約9mの円墳で、古墳時代後期の6世紀後半に作られたものと考えられている。
1985(昭和60)年に第1次調査、1988(昭和63)年6月に国内の発掘調査史上初めてファイバースコープを使った石棺の内部調査が行われ、その年の10月8日に1400年ぶりに石棺の蓋が開かれた。未盗掘で埋葬当時の姿がほぼそのまま残っており、当時の埋葬儀礼を解明する上で貴重な資料を提供した。
その後、2000(平成12)年度と2003(平成15)年度にも調査が行われ、計5回の発掘調査が実施されている。1991 (平成3)年11月16日には、国史跡の指定も受けている。
石室内からは鳳凰、象、鬼面などの透彫を施した見事な金銅製の馬具が出土し、石室に収められた家形石棺内からは金銅製の冠や履、太刀など豪華な副葬品や、ニ体の埋葬が確認された。彫金技術の粋をきわめた副葬品は被葬者の権威を示すものであり、鑑定の結果,被葬者2人はともに男性で,一人は青年(17~25歳)で身長164cm,血液型B型,もう一人は成人(20~40歳)で足が長く,B型であることがわかった。頭の骨がこなごなになっていることから異常な死に方を想起させる。
この斑鳩町の地域は、藤ノ木古墳に代表される古墳時代後期と呼ばれている6世紀後半頃から、聖徳太子が飛鳥地方から斑鳩へ移り住んだ飛鳥時代にかけては、斑鳩宮や岡本宮などの諸宮のほかに、斑鳩寺(若草伽藍跡)や中宮尼寺が建立されて、当時の宮都であった飛鳥地域と遜色のない文化の華がひらいていた。その後、法起寺や法輪寺の建立の着手があったが、蘇我氏の襲撃による上宮王家の滅亡により、完成は見なかったのである。
私も、飛鳥時代のことには、興味を持っており、私の大好きな哲学者でもある梅原孟氏の「聖徳太子」他、この時代の本は結構読んでいる。この頃、曾我氏と物部氏が対立していたが、用命天皇の即位争いでは、穴穂部(あなほべ)皇子の即位を実現しようとする大連物部守谷とそれに同調する勢力に宣化天皇の子の宅部(やかべ)皇子がいた。これに対して、曾我の馬子は、穴穂部皇子の同母弟の泊瀬部(はつせべ)皇子を次の天皇に担ぎ出し、穴穂部皇子と険悪な関係にあった炊屋姫(後の推古帝)にとりいり、佐伯連など軍事に関係の深い氏族に対して、両名を誅せよという詔(みことのり)を出してもらいたちまち穴穂部皇子と宅部皇子の二人を殺してしまっている。この時馬子のもとには用命天皇の子の厩戸(うまやど)皇子(聖徳大使)等が駆けつけている。
今、587年に蘇我氏によって殺害されたこの穴穂部皇子と宅部皇子の2人ではないか・・・?と推定する説があるようだが・・・?
なにしろ、聖徳太子が斑鳩の宮を造営する直前に作られた墳墓である。被葬者が誰であるか・・・?さまざまな候補者の名があがってはいる。しかし、2004年現在では、未だ、誰と特定されたという話は聞いていない。気にになるところであり、どんな人物が埋葬されたのか、これからの研究が楽しみだ。
古墳の盛り上がった部分は畑になっていて、おそらく畑の持ち主のものであろう物置小屋も作られている。この畑の持ち主もまさかここが古墳だとは思っていなかっただろうが、だからこそ、未盗掘のままで残されていたに違いない。主な出土遺物の一部は、「奈良県立橿原考古学研究所附属博物館」に展示されており、斑鳩町内では「いかるがホール 歴史資料室」に主要な遺物のレプリカとパネルによるガイダンスをしている。
藤ノ木古墳は、豪華な副葬品の出土で注目を集めたが、中学生3人が侵入して石室を壊す事件(平成7年11月28日発生「史跡藤ノ木古墳石棺き損事件」)が起きた他、阪神大震災の影響もあり、保存整備が急務とされていると聞いている。
(画像は、「藤ノ木古墳」奈良県観光協会HP写真借用。)
参考:
奈良県斑鳩町
http://www.town.ikaruga.nara.jp/
史跡:藤木古墳
http://www1.kcn.ne.jp/~ikaruga/spot2/huzinokikohunn.html
斑鳩 藤ノ木古墳 現地説明会資料(2001年4月14・15日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2001/fujinoki4.html
斑鳩町藤ノ木古墳第5次調査 現地説明会資料(2003年11月22日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2003/fujinoki5/fujinoki5.html



鮎川哲也 (推理小説家)の 忌日

2005-09-24 | 人物
2002年の今日(9月24日)は、鮎川哲也 (あゆかわ てつやー推理小説家)の 忌日。日本ミステリー界が誇る本格推理作家であり、鉄道をつかった緻密なアリバイトリックを用いた作品などを数多く残している。
当初生年月日不明・・・後に、1919(大正8)年2月14日 生まれと判明。本名中川 透(なかがわとおる)。東京に生まれ満州に育つと言うが、この辺の経緯もはっきりとは判らないなどなぞの多い人物。終戦後東京にて、ミステリーの執筆に意欲を示し、1948年、探偵小説雑誌〈ロック〉に短編「月魄」(那珂川透名義)を掲載してデビュー。1950(昭和25)年、長編第一作『ペトロフ事件』で雑誌《宝石》の懸賞の第一席に入選し、これを契機に本格的なデビューを果たすが、版元の経営難などから賞金が一部しか支払われないことに強く抗議したため関係が悪化し、作品発表の機会を閉ざされてしまう。この頃まで、那珂川透の他、薔薇小路棘麿、青井久利、中河通、宇田川蘭子など、複数の筆名を使い、多くの短編作品を雑誌に投じたりしていたが、雑誌掲載こそなったものはあっても、まだ本になったものはなかったそうだ。そのため、この時点では、多くの読者は著者の名も作風もまったく知らずにいた。
1955(昭和30)年、講談社の(書下ろし探偵小説全集)の最終配本の第十三巻が、一般公募による新人の作品が当てられることになり、これに応募した『黒いトランク』が、見事入選した。(1956年刊行)。この作品で初めて鮎川哲也 名義を使い、以後鮎川名義で統一する。1957年には、関係が悪化していた宝石との不仲も解消され、本格的な活動が可能になった。1960年には『黒い白鳥』『憎悪の化石』の2長編で第13回日本探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞))を受賞。本格推理作家として確固たる地位を築いた。本格ものは言うまでもなく、時刻表トリックを使用した作品においても解決に必要なすべての手がかりを読者に明らかにするという本格推理にこだわり続けるなど、社会派主流の時代にあっても独自の作風を守り続けた。晩年は新人の発掘にも力を注ぎ、1990(平成2)年からは東京創元社の主催による《鮎川哲也賞》の選者として貢献した。
私も今は、推理小説など全く読まなくなったが、推理小説は大好きで、若い頃は、日本探偵作家クラブ賞他直木賞などの賞をとった推理小説は殆ど読んでいる。私の場合、余り、推理小説のジャンルにとらわれずに読んでいたが、この作家は、本格物にこだわっている。新人発掘のために、光文社文庫が「本格短編」を募集し、鮎川哲也が中心になり、応募作品を審査し、当選作を選び本格ミステリーの短編集「本格推理」(1)~(10)(編集長・鮎川哲也)が、発刊されたが、この中で、本格ミステリーの条件をあげているが、先ず第一に、「事件解明の手がかりは出し惜しみをせずに書くこと」、第二は、先人作家が考案したトリックを盗用してはいけない」、第三に「作中の名探偵が拾い集めたデーターは、全て、読者に見せなくてはならない」とある。作者が全て手の内をさらけ出しているものを、読者が自分の推理を働かせて読む。この、文庫本の短編集は、私が、仕事で、出張している時など電車の中で読んでいたが、このシリーズものを呼んでいる間に「本格推理」のファンになってしまった。全てが明かされているのに、作者の巧みな仕掛けによって、迷路に入ってさまよっている姿を想像して、本格推理作家はほくそえんでいるのであろうな~。おかげで、夢中になって読んでいたため、よく電車で驛を乗り過ごしそうになったものだよ。
(画像は、光文社文庫、鮎川哲也編・「本格推理」)
参考:
鮎川哲也の部屋
http://homepage1.nifty.com/kokubyaku/ayukawa.htm

海王星の日

2005-09-23 | 記念日
今日(9月23日)は、「海王星の日」
今日、数ある記念日の中から「海王星の日」を選んだのには、理由がある。昨年新聞の「天声人語」(22日付け)を読んで、愕然とした。コペルニクスが「地動説」を唱えてプレトマイオスの「天動説」を覆すまでに千数百年かかったと言うが、その「プレトマイオスが復権か」と思わせるような調査結果を載せていた。なんと、日本の公立小学校の4~6年生の中、42%が、「太陽は地球の周りを回っている」と応えたらしい。最近、日本人の学力低下が問題となっているが、このようなことも教えられていないらしい・・・。私も、天体のことは余り知らない。しかし、1846年の今日(9月23日)は、ベルリン天文台のJ.G.ガレ(1812~1910年)によって海王星が、発見された日なので、にわか勉強のことを少し書いてみよう。
 イギリスのジョン C.アダムス(1819~1892)とフランスのウルバン・ルベリエ(1811~1877年)の二人の数学者は、1781年に発見された天王星の軌道に計算と観測の食い違いが生ずるのは、未知の惑星の重力のためであるとし、おそらく外側にもう一つの惑星があるのだろうと考え、独自にその見えない惑星のあるべき場所を計算で求めた。ガレは彼等の計算に基づき、どんぴしゃりの場所に新しい惑星を見つけた。
 海王星は、1846年に発見された。海王星の公転周期(太陽のまわりをひとまわりする時間の長さ)は164年らしいので、あと5年(2010年)で、発見から1まわりして、発見したときの位置に戻ることになる。その海王星を発見した場所は、やぎ座の北東部。その時にはすぐ近くに土星が輝いていた。発見者のル・ベリエ(LE BELIER)とは、フランス語で「白羊宮、牡羊座」という意味だそうだが、山羊座の北東部にある海王星を牡羊座(ル・ベリエ)が発見したなんて、面白いと思わない・・・?・・・ちょとは興味を持った・・・?
 現在海王星を訪れた探査機は、1989年8月25日のボイジャー2号の一機だけで、海王星に関する情報のほとんどすべては、この探査機からの情報によるものだそうだ。海王星は太陽系の第8惑星で大きさは地球の約3.9倍、地球を除けば、太陽系で最も青い惑星で、海王星が青い色をしているのは、地球とは違って、大気中に含まれる水素、ヘリウム、それにメタンなどの中、メタンが赤い色を吸収してしまうからだそうだ。そして、 海王星の環は、ボイジャー2号の写真撮影により13個の衛星の存在が確認されている(2003年9月現在)。 そして、うち8個には名前があり、その名称は、トリトン(Triton), ネレイド(Nereid), ナイアッド(Naiad), タラッサ(Thalassa), デスピナ(Despina), ガラテア(Galatea), ラリッサ(Larissa), プロテウス(Proteus)である。この8個の衛星のうち最大のトリトンは,惑星の自転方向と反対方向に回っていることで有名なんだそうだ。
 これらの太陽系の惑星にはギリシャ神話にちなんだ名前がついているよね。
 海王星の英名Neptune(ネプチューン)は、ローマ神話の海洋の神ネプトゥーヌス(Neptunus)/ネプチューンに由来する.。これはギリシャ神話のPoseidon(ポセイドン)にあたる。ポセイドンは、黒髪に髭をたくわえ、泉を湧き出させる三叉のほこ(trident)を手にした男性の姿で現されているよね。クロノスとレアの息子で、ゼウスとは兄弟(兄)で、海を支配するが、海を支配しながら、陸や空まで支配権を主張して自分の兄弟姉妹たちと争った。色々な生き物を作り出す才能があり、中でも、収穫の女神デメテルに求愛するためにこしらえた「馬」が最高傑作で、その課程で試作品として駱駝、河馬、麒麟、驢馬、縞馬などが作られた。又、オケアノスの娘アンピトリテに求愛するときには、話をし踊りをおどる魚を考案、「いるか」と名づけて彼女に贈った。いるかはポセイドンの言い分を機知に富んだ雄弁で語ったので、アンピトリテも降参し、妻となり、海の女王となった。馬は、ポセイドンの聖獣である。妻のアンピトリテとの間に子供トリトン(海のラッパ手)をもうける。
 海王星の衛星の中で最大の衛星トリトンは、1949年、カイパー(Gerard P. Kuiper、アメリカ)が発見。海王星を一周するのに1年近くかかるという。ギリシャ神話でトリトンは、ポセイドンとオケアノスの娘アンフィトリテとの間にできた子供で、下半身は魚で上半身は人間の、穏やかな日和の海に浮かび上がり、大きなほら貝を吹く名人である。海王星の衛星トリトンは海を見つけて近づき海王星の廻りで遊んでいるのかもしれないね~・・・。
どうですか?にわか勉強で学んだことの受け売りですが、他の衛星にもこんな楽しいお話があるんだよ。宇宙の星の話、ギリシャ神話など面白いよね。下に、面白そうな、HPを紹介しておこう。学校で教えないのなら、お家の方がお子さんに教えてあげて・・・・。私も、もう一度、見て見よう・・・と。
(画像は2004年9月23日朝日新聞朝刊より)
参考:
日本惑星協会
http://www.planetary.or.jp/group_nepture.html
星座・宇宙博物館
綺麗な画像で宇宙を紹介。
http://www.t3.rim.or.jp/~star/
海王星
海王星のデータ 海王星は太陽から8番目の惑星で、(直径で)4番目の大きさです。 海王星のことは詳しい。
http://www2.nict.go.jp/ka/TNPJP/nineplanets/neptune.html
星座物語
星座の生まれた背景や星座に秘められた物語をご紹介しています。
http://jvsc.jst.go.jp/universe/hoshi/monogatari.html
不思議キッズ 星座の部屋
星空をながめたことがありますか? ... 今月の星空ガイド 星座早見盤を見よう! ..
http://gakushu.net/cosmos/
THE DEITIES OF GREECE MYTHOLOGY
ギリシャ神話の神々の系譜、神名リスト等。
http://ueno.cool.ne.jp/babylon/

孤児院の日

2005-09-22 | 記念日
今日(9月22日)は、「孤児院の日」
1887(明治20)年、岡山の医師・石井十次が日本初の孤児院「岡山孤児院」を創設した。
私は石井十次のことを良く知らなかったので 調べてみると、石井十次は、1865(慶応元)年~1914(大3)年、宮崎県高鍋町生まれ、父は高鍋藩3万石(秋月家)の下級武士であった。十次は最初岡山で医学を学んだが、受洗後、ある貧しい母子との出会をきっかけに、23歳で本格的な児童救済事業を始め、日本初の孤児院「岡山孤児院」を創設、生涯で3000人以上の孤児救済に尽くし、「孤児の父」と呼ばれているそうだ。
今は一般的な言葉となった「ボランティア」であるが、この単語が日本に紹介されたのは、明治時代から大正時代と言われている。この頃は歴史家や学者などの専門用語として使われていたそうだ。現在の「ボランティア」という言葉が一般に普及したのは戦後、それも1970年代以降のこと。日本にも、古くから仏教や儒教に基づいた「ほどこし」や「助け合い」の心が人々の間に受け継がれてはいた。明治初期、キリスト教の宣教師たちによって、「自発性」「無償性」「自由意思」といった近代のボランティアの考え方が伝来した。この欧米からもたらされたボランティア精神の流れをくみ、日本初の孤児院「岡山孤児院」を設立したのがきっかけとなって、「ボランティア」が今のように民間社会事業として発展してきたのだそうだ。
今、児童福祉に長年功績があった全国の個人・団体に贈られる賞に「石井十次賞」というのがあって、静岡県掛川市の学校法人「ねむの木学園」の園長・宮城まり子さんも第13回「石井十次賞」に選ばれているんだとか。女優として活躍していた宮城さんは私財を投げ打ち、障害児教育に尽くした約40年間の功績が認められたものだそうだ。私は、昔、静岡の砂丘を見に行った時に一度、このねむの木学園の横を通り抜けたことがあったな~。 この偉大な石井十次の生涯を映画化した映画「石井のおとうさんありがとうー石井十次の生涯」(山田火砂子監督、主演・松平健、竹下景子、辰巳琢郎ほか、現代ぷろ)も作られていたんだよ。私は、今日まで、全然知らなかった・・・。
私には、恥ずかしながら、「孤児院」という名前を聞くと、昔見た映画、かの有名なジーン・ウェブスター(1876‐1916)の名作を映画化した「あしながおじさん」のミュージカルが思い出されますね~。孤児院の中で他の子供達の世話を一生懸命している天真爛漫な少女ジュリー(レスリー・キャロン)が、名前も知らないおじさんから奨学金をもらって大学に行けることになった。その後援者とされる人の名は「ジョン・スミス」と言う匿名でしか判らない。その人はどんな人なのか?。脊がたかくて足の長いスマートな人・・・、顔は・・・?、判らない。しかし、、確かなことは、とてもやさしくて、大切なな人だっていうこと! ジュリーは、想像上の「あしながおじさん」に、大学の生活を手紙に書いて送り続ける。楽しかったこと、悲しかったこと、そして、ある人を好きなことを! 毎日の出来事を手紙で書くのだが、返事をくれない。いくら手紙を書いても返事をくれなかったおじさんの正体は・・・?
ラストでは、ダンスの名手フレッド・アステアと天才バレリーナーレスリー・キャロンの見事なダンスが・・・・。格好良かったね~!!古き良きハリウッドのミュージカルという雰囲気がいっぱい詰め込まれていた映画だった。まだ、余り豊かではなかった時代、今の時代のようにアクションばかりじゃ~なく、こんな素敵な夢のある映画が、たくさん日本で上映され、私もよく映画を見に行ったよ。私は本を読んでいないが、このウェブスターの「このあしながおじさん」には、「続・あしながおじさん」もあったのだね~。皆さんはご存知・・?以下参考に本を紹介しておくね・・・。
この映画が、日本で上映されてから、「あしながおじさん」と名のつく色んな多くの支援団体が出来たよね~。 ネットで「あしながおじさん」を検索すると、色んな団体が出てくるよ。
でも、日本で、急速にボランティア活動が活発に行われるようになったのは、あの阪神・淡路大震災の時からだったろうね~。あの時、日本中の若者が、神戸救済の為に努力してくれ、怠惰的と思われていた今の若者を見直した。我々、神戸在住のものは、一生あの時の支援を忘れない。本当にありがたかった。
※石井十次賞は、石井十次顕彰会が児童福祉事業の先駆者である石井十次の精神と実践を継承し、発展させることを目的として、それにふさわしい業績のある個人、団体を表彰し、我が国におけるボランティア精神と、社会福祉に対する国民意識の向上を図ることを目的に制定し、平成4年に第一回の授賞を行っている。(昭和40年に石井十次生誕100年を記念して、記念事業を行うことを目的に発足とのこと)
(画像は、「岡山孤児院物語 石井十次の足跡 」【編集】山陽新聞社。)
参考:
素晴らしき宮崎人・石井十次
http://www.gurunet-miyazaki.com/
石井十次の生き方
http://ww3.tiki.ne.jp/~bocky/isii.htm
ねむの木学園: School for Handicapped Children
http://www.nemunoki.or.jp/
続・あしながおじさん
http://www.gutenberg21.co.jp/dady2.htm

宮澤賢治忌

2005-09-21 | 人物
今日(9月21日)は、「宮澤賢治忌」
童話作家・詩人の宮澤賢治の1933(昭和8)の忌日である。
1896(明治29)年花巻で生まれた宮澤賢治は、盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育をしながら、多くの詩や童話の創作を続け、30歳の時に農学校を退職、独居生活に入り、農民講座を開設し、青年たちに農業を指導した。しかし、このときの心労がたたり、その後、2度病に倒れ、ついに1933(昭和8)年9月21日、37歳の若さで永眠した。宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」などたくさんの童話や詩の名作を残したことで有名であるが、教育者であり、農業者でもあり、天文・気象・地理・歴史・哲学・宗教・化学・園芸・生物・美術・音楽・・・など本当に多彩な才能を持っていたといわれている。
中でも、幼少よりおばや父などから仏教の影響を受け、中学3年の時に、夏期仏教講習会に参加し、仏教学者でもある住職の法話を聞き 以来、仏教に目覚め、毎年参加し、盛岡中学を卒業後は、病気、入院、将来の進路をめぐっての父との対立などから、ノイローゼ状態になっていた時に出会った、仏教の経典に衝撃を受ける。その後、妹「トシ」の病気の際、看病のために行った東京では在家宗教団体に入会。このようにして受けた、「仏教思想」は賢治の生き方と賢治の作品の上に大きな影響を与えている。そして、死去の際には、法華経1千部を印刷して、知人に配布するよう父に遺言している。
未完成のまま世に出された有名な童話「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の全作品の中でも最も想いの詰まった童話の一つだといわれている。この作品は賢治が26歳の時になくなった妹の「トシ」の死後に書き始めている。この「トシ」は、賢治の4人の弟妹の中でも「信仰を一つにするただ一人のみちづれ」とよび、特別な思い入れのある妹であった。賢治は「死んだ妹が天の木星にいるかもしれない」と、「トシ」の死後間もなしに、樺太鉄道に乗って北へ向かって旅行をしている。この旅行が「銀河鉄道」の元になっているのである。物語に出てくるジョバンニとカムパネラは「死んだ「トシ」と生きている「賢治」を指している。この「銀河鉄道」については以下参考に挙げている「賢治の見た夢」が詳しく考察している。賢治を偲んで、賢治の作品をもう一度読み返してみませんか。私も、宮沢賢治と同じく仏教を心のよりどころにしており、賢治の童話は、時々、思い返したように読んでいる。今日も1つ読んでみようかな。
(画像は”銀河鉄道の夜―最終形・初期形〈ブルカニロ博士篇”)ますむら版宮沢賢治童話集。)
参考:
宮沢賢治の宇宙
http://www.kenji-world.net/
イーハトーブ - 宮沢賢治の童話全集。
http://nagoya.cool.ne.jp/ksc001/
賢治の見た夢 - 銀河鉄道の夜のセリフ、登場人物等の分析、クイズ等。
http://contest2002.thinkquest.jp/tqj2002/50133/