今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

空の日

2005-09-20 | 記念日
今日(9月20日)は、「空の日」
「空の日」の起源は、1940(昭和15)年に「航空日」として制定されたものが始まり。この年の「航空日」は9月28日に行われたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定された。
ライト兄弟が始めて空を飛んでから7年、日本にも飛行機の時代が来る。日本での初飛行は、1910(明治43)年12月14日。代々木練兵場で「公開飛行」の「地上滑走試験」が行われた日。この日は「地上滑走試験」予定日だったが、午後4時過ぎ、陸軍歩兵大尉日野熊蔵(ひのくまぞう)の操縦するドイツ製のグラーデ単発機が地上2メートルの高さに浮上し、100メートルの距離を飛んだ。16日にも日野機は高さ5メートル、で距離50メートル、ついで、高さ3メートルで距離100メートルを飛んだ。しかし、この間、徳川好敏(とくがわよしとし)大尉のファルマン複葉機はエンジン不調や滑走中の破損で飛べず、又、天候にも妨げられて、ようやく「本飛行予定日」の19日朝、高さ70メートル、距離3,000メートルの飛行に成功した。午後には、日野機も高さ20メートル、距離1000メートルを飛んだ。結局、2人が揃って飛んだこの日の飛行を公式に「日本最初の飛行」とし、「徳川、日野」の順に2人の名が併記されることになったという。この日以前に飛んだ、日野の飛行については、滑走中に余勢を誤って離陸したものとして無視された。徳川好敏は、徳川篤守(旧御三郷・清水家)の長男。旧将軍家に繋がる名門の徳川氏への配慮か、どうかはわからないが、今では、12月14日の日野大尉の飛行こそ「日本最初の動力飛行」とする見解が航空史研究者の間では大勢となりつつあるようである。当時の時代であれば、徳川氏への配慮なども考えられたことであろう。
「航空日」は、第2次大戦中中断されていたが、戦後の1953(昭和28)年に復活。1911(明治44)年、後に日本の気球制作のパイオニアと言われる山田猪三郎が開発した「山田式飛行船」が、滞空時間1時間の東京上空一周飛行に成功したのを記念して制定された。運輸省(現在の国土交通省)航空局が1992(平成4)年に、民間航空再開40周年を記念すると同時に、民間航空の意義と役割について広く国民の理解を得ていくこととし、より親しみやすい呼び名ということで、現在の「空の日」に改称した。しかし「空の日」が、12月では気候的に「航空日」の行事に適さないため、帝都上空一周飛行が行われた9月の20日を「航空日」としたものだそうだ。
より多くの国民に航空への理解と関心を高めてもらおうという趣旨で、9月20日の「空の日」とともに「空の旬間」(9月20から30日)が設けられ、この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されている。
空の日のことは国土交通省のHP空の日ネットが詳しいよ。
尚、日野熊蔵は、熊本県人吉生まれ。陸軍士官学校卒。陸軍で発明の才を認められ技術審査部に移る。手榴弾を考案し、日野式拳銃でも特許を取得。1909(明治42)年、臨時軍用研究会委員に任命され、翌1910(明治43)年飛行訓練のためドイツへ。帰国後、上記の通り、日本で初めての動力飛行に成功後、「日本の空を日本人のつくった飛行機で」と、日野式飛行機の製作に励んだが、失敗続きで配置転換になり、不遇のまま1918(大正7)年予備役に。1946(昭和21)年1月栄養失調で亡くなったといわれている。(朝日クロニクル・週刊20世紀より)
(画像は今年の空の日ポスター、国土交通省ホームページより)
参考:
国土交通省ホームページ「9月20日は空の日」
http://www.mlit.go.jp/koku/koku.html
航空関係報道発表資料:「平成16年度「空の日」・「空の旬間」について(2004.8.31)」
http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha04/12/120831_.html
日本の臨時軍用気球研究所
http://www5d.biglobe.ne.jp/~cocoro/sub41.htm

敬老の日

2005-09-19 | 行事
今日、9月19日(9月の第3月曜日)は「敬老の日」 (Respect for the Aged Day)。
多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う国民の祝日。
「敬老の日」は、兵庫県多可郡野間谷村(現在の八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始り。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、1947(昭和22)年から、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、敬老会を開いた。1950(昭和25)年からは兵庫県全体で行われるようになり、それが全国に広がったものである。この「としより」という呼び方はひどいということで、1963(昭和38)年に、「としよりの日」の名称は「老人の日」に改められた。この名称は、1964(昭和39)年から1965(昭和40)年まで使用されていたが、1966(昭和41)年からは、国民の祝日「敬老の日」となった。そして、「祝日法」の改正により、2003(平成15)年からは、「9月15日」のものが、「9月第3月曜日」に変更された。
しかし、良く判らないのは、この「祝日法」の改正によって「敬老の日」が9月第3月曜日となるのに伴い、従前の敬老の日(9月15日)を記念日として残す為にという理由で、2002(平成14)年1月1日改正の「老人福祉法」によって、9月15日を「老人の日」に制定しているのである。そして、この日を、国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意慾を促す日とし、この「老人の日」)からの1週間を「老人週間」(9月15日~9月21日まで)としている。
だから、祝日法の「敬老に日」と老人福祉法の「老人の日」とは、別のものなのだ。私は、老人の日は敬老の日に名称変更し、もうなくなっていたと思っていたのだが・・・・。つまり、「敬老の日」は老人を敬愛し、長寿を祝う」。「老人の日」から、1週間は、老人に対し自らの生活の向上に努める意慾を促す日なのである。ややこしい話である。趣旨が違うからと言う理由なのだが、なんとなく、お役所の人間の発想法だな~と感じる。
ところで、どちらにしても、お年寄りを、「老人」と呼んでいるわけであるが、この老人と言う呼称をどう思う・・・?。「老人」の日になる前は「おとしより」と呼んでいた。私には、「老人」と言う呼び方には、老齢者を蔑視したような印象を受け、「おとしより」の呼び方の方が余程、ほのぼのとした、老齢者を大切に思う気持ちが現れているように思うのだが・・・。
又、それでは、老人と呼ぶ年代は、何歳からを言うのだろう。老人福祉法が65歳以上を老人としているようなので、どうも、65歳以上を「老人」と呼び、老人として扱うと言うのが一般的なようだ。
ある人が、満65歳になった途端に、老人クラブへの入会を勧誘され、ショックを受けたといっていたが、それも、当然だろう。老人福祉法ができた昭和38年(1963年)当時は、男の平均寿命は約67歳で、65歳以上の高齢者の人口はごく少なかっただろう。だが、今や平均寿命は80才の時代なんだよ・・・。
今朝の朝日新聞朝刊を見ると、全国の65歳以上の高齢者が2556万人となり、初めて総人口の2割に達したことが、「敬老の日」にちなんで総務省がまとめた15日現在の推計でわかったという。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、この割りは今後も伸び続け、10年後には26%に達する見込みだとか。生産年齢人口(15~64歳)に対する高齢者の比率を示す老年人口指数は、30.2%。ほぼ3人で1人のお年寄りを支えている計算になる。
今や、老人というマーケットを当て込んだ商売も目白押しである。「豪華客船世界一周ツアー」「介護ビジネス」といったものの他、「60歳以上のなんとか教室」など老人を対象とした商売は好調なのだそうだ。しかし、私には、今の世の中、お年寄りを年長者として尊敬し思いやる気持ちは薄れ、一寸お邪魔な存在の老人として扱いながら、しっかりとこれを商売のネタにしているように思われて仕方がない。そして、お年寄りを、ターゲットにした悪徳商法も後を絶たない。
米国のカーター元大統領の著書「老年時代」によれば、「”自分は老人だ”と考えるようになったときに老人になる」とあるようだが・・・。これからの、老人のあり方は、どうあるべきだと思いますか・・・?
同新聞によると、日本の高齢者の中で、仕事についている人は2004年時点で480万人、就業割合は19,4%。米国の13.9%、フランスの1.2%など欧米諸国より高い水準になっているというが、・・・これは、いい傾向なのか・・・・?、それとも働かなくては食べてゆけない哀しい現実なのか・・・・・・???。
(画像は、マイコレクション「明治の風俗絵葉書」より)
参考:
国民の祝日に関する法律(祝日法)
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1948L178.html
第二章 老年学関係書... 老人の定義(一体、老人とは何歳からか) ...
http://www1.ttcn.ne.jp/~mmori/page2.htm
神戸市老人福祉法施行細則
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/09/010/reiki/reiki_honbun/ak30205071.html
高齢者福祉施策 (神戸市保健福祉局)・・おおむね65歳からはじまります 。
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/18/menu03/a/am10.html


かいわれ大根の日

2005-09-18 | 記念日
今日(9月18日)は「かいわれ大根の日」
日本かいわれ協会が1986(昭和61)年9月の会合で、無農薬の健康野菜である貝割大根にもっと親しんでもらおうと制定。9月はこの日を制定した会合が行われた月で、18日は8の下に1で貝割大根の形になることからだとか。
「貝割れ大根(アブラナ科)」は、大根の双葉で、双葉の形が貝が割れているように見えることから、こう呼ばれているらしい。生育期間は数日~10日ほどと短く、水耕栽培が出来ることから、栽培工場の大量生産により、何時でも、何処でも、安価で、簡単に手に入る食材となった。私は、食物の栄養のことはよく知らないが、最近、スプラウト(=発芽野菜)が話題になっている。モヤシは豆の発芽野菜であるが、貝割れ大根も大根の発芽野菜である。この発芽野菜は栄養満点で、特にミネラルやビタミン類を豊富に含んでいて、ガンにも効くなどといわれているが・・・・。
ところで、「貝割れ大根」と言えば、1996(平成8)年頃だったと思うが、ある日、突然、近所のスーパーなどから貝割れ大根が一斉に消えてしまったことを思い出す人もいるだろう・・・。当時、大阪・境の小学校などで「o-157」という食中毒が発生し、死人まで出て、その感染源のひとつとして、貝割れ 大根があげられたからだよね。
貝割れを作っている業者は日本中にいくつもあり、すべての業者の貝割れが危険なわけがあるはずでもないのに、貝割れ大根がアッという間にお店から消えてしまった。しかし、これが、本当に危険だったのなら仕方ないのだが、このo-157に起因する学童らの集団食中毒について、厚生省が,貝割れ大根が原因食材とは断定できないが,その可能性も否定できない・・・(中間報告)などと、先走って発表したからこんなことになってしまったのである。結局、この事件、裁判では、o-157食中毒事件の原因は、貝割れ業者とは関係なく「学校給食を含む流通経路における汚染が疑われるべきだ」と言った判決結果が出たように記憶している。 その後、時の厚生大臣が、丼いっぱいの貝割れ大根を食べるパフォーマンスをして、名誉回復をはかろうとしていた滑稽な姿を思い出す。それ以来、私は、その時の大臣は、「パフォーマンス大臣」と呼ぶことにした。そう最近、国民健康保険問題で、自分のつまらぬおしゃべりがもとで失脚したあの人だよ。と言うよりも、昨日、9月11日の衆議院選で、小泉自民党に退廃した党の党首が辞任したので、その後継党首選に立候補し、若手に負けた人といった方が分かりやすいかな?。たいした実績はないが、パフォーマンスだけは派手だね。当時の貝割れ業者にとっては大迷惑なことであったろうね。
※最近、テレビなどでは、サプリメント大流行であるが、本当に、健康に良いの?という疑問を解決するための良いHPを、見つけた。以下、参考に書いてあるHPである。健康志向の方、一度覗いておかれては・・・。

参考:
健康食品の安全性、有効性情報。独立行政法人、国立健康・栄養研究所のHP。
http://hfnet.nih.go.jp/main.php

野茂英雄投手が大リーグでノーヒット・ノーランを達成した日 。

2005-09-17 | 歴史
1996(平成8)年の今日(9月17日)は、 野茂英雄投手が大リーグでノーヒット・ノーランを達成した日 。
野茂英雄は、1989年、近鉄バファローズに入団。1990年、最優秀防御率を獲得、新人王と沢村賞、MVP、ベストナインに選出され、1990~1993年、最多勝と最多奪三振王を獲得。
1994(平成6)年8月、肩を故障し,8勝7敗の成績でシーズンを終了、複数年契約を希望したが通らず近鉄を退団。任意引退選手、自由契約となった。(日本での成績は5年間で78勝46敗)。翌1995年、近鉄から米大リーグ・ロサンゼルスドジャースに移籍(当時26才)その年のオールスターゲームに先発出場を果たし、同年6月2日、地元ドジャースタジアムで行われたメッツ戦では、7度目の登板でメジャー初勝利を収めた。この年、13勝を挙げてナ・リーグ新人王に選ばれている。彼は、大きく振りかぶってから背中を打者に向ける「トルネード投法」と呼ばれる独特の投法から繰り出される、キレのあるストレートとフォークボールで、相手打者を三振に打ち取り、大リーグでも、観客から大きな声援を受けた。
彼は、大リーグへの挑戦に成功し、現在の日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在となった偉大な選手である。1995年、ドジャースに入団後、色々な球団へ所属していたが、2002年FAで再度、古巣のドジャースに移籍、今も同球団に所属している。
今ではオリックスのイチローやジャイアンツの松井秀喜他、数多くの日本人が野茂の切り開いた大リーグへの道に続いている。それにつれて、マスコミの注目は新しい選手へと移っている。そして、NHK衛星放送の試合中継でも、後続の選手達の報道が多くなり、野茂の登板試合の報道が少なくなってきた。しかし、その野茂は、今年(2005年)日本時間06月16日 、ついに、日米通算200勝達成!
日本人メジャーリーガーが珍しくなくなった今、改めて、パイオニア野茂英雄の功績を再評価すべきであろう!
近年、日本のプロ野球人気下落などもあり、昨1996(平成16)年は、1リーグ制の導入問題や、野茂の抜けた近鉄球団の、身売り説などが出、野球界は大揺れに揺れた。その後、ライブドアーが近鉄買収問題に名乗りをあげるなど世間を騒がせたが、結局、近鉄は同じパリーグのオリックスと合併。ネット業界のライブドアーと楽天が新球団設立を争い、勝利した楽天が今年新球団を設立し一応今までと同じ様に2リーグ制を維持している。合併により、近鉄・オリックスからはみ出した選手を中心に作られた楽天の今期の成績は、昨日(9月15日)現在、37勝 90敗 1 引勝率,291 19.5 首位との差48ゲームと惨めな成績を残している。
今年から、新しい試みとしてセ・パ交流戦などやっており、ものめづらしいさもあり、多少は、野球への関心も高まっているやに見えるが、所詮、昔のような野球人気を回復することは難しいのではないだろうか。今の時代、スポーツは、野球だけではないし、又、日本のスター選手が、次々とメジャーリーグへ行ってしまえば、日本野球界はスター不在になってしまう。昔から、巨人ファンだとか、阪神ファンだとか言っていても、その球団が好きと言うより、その球団のスター選手が好きで応援していた人達が大勢いたであろう。どちらかと言えば、私も、それほど野球が好きと言うわけではなく、好きな選手がいたから、そのチームを応援していたのであり、今は、その選手もメジャーリグへ行ってしまったため、そのチームには興味がなくなってしまった。最近人気の低迷している相撲界にしても同様で、スター選手が不在ではね~。スター選手の育成と同時に、折角育てた優秀な選手が日本に残って試合できるような環境整備が大切だろう。
(画像は、初勝利しドジャースのラソーダ監督(当時67)、に抱き抱えられる野茂。新聞報道写真より)
参考:
NOMOSUKI.COM - 誰よりも野茂英雄が好きな人達へ
http://www.nomosuki.com/
近鉄・オリックス球団合併と1リーグ制に反対するHP
http://prismatica27.hp.infoseek.co.jp/
近鉄・オリックス球団、経営難で合併へ
http://www.yomiuri.co.jp/sports/feature/tougou/200406/to20040614_01.htm
MLB・SPORTnav/ 野茂、日米通算200勝達成!
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/05season/column/200506/at00004893.html


マッチの日

2005-09-16 | 記念日
今日(9月16日)は「マッチの日」。
1948(昭和23)年の今日(9月16日)は、戦時中、配給制であったマッチの自由販売が認められた日である。
神戸でマッチ製造が始まったのは1877(明治10)年ごろ、当初は監獄内での製造であったという。ただし、マッチ製造には危険がともなうため、1881(明治14)年には監獄内での製造は中止されたそうだ。
フランスへの留学でマッチの製法を学んで明治7年に帰国した清水誠が、1875(明治8)年から、東京の仮工場で製造していたが、1878(明治11)年このマッチの製法を広く公開し、積極的な普及活動を行った結果、日本各地にマッチ生産を普及させた。当初は「失業士族救済のための士族授産事業」として、マッチ工場が設立されたようだ。兎に角、このころから、ようやく日本のマッチは産業としての出発点に立った。その発展は著しく、やがて、阪神地区の都市労働者家庭の婦女子を労働力とした安価なマッチが製造されるようになり、短期間の間に国産品の生産が輸入を上回り、さらに海外へ輸出され、日本の代表的な輸出品のひとつになった。そのようななか、国内最大のマッチ生産地として神戸が浮上してきたが、その背景には華僑の活躍があった。マッチの販売に、華僑のネットワークが活用され、神戸の華僑の手によって上海、香港など中国各地に輸出され、さらに東南アジアヘと広がっていった。これが成功したことにより、神戸は輸出向けのマッチの一大生産地となっていった。
第一次世界大戦以降、日本の輸出先でもマッチ生産が始められ,輸出量は激減し、逆にかねてより力のあったスウェーデンが日本の輸出市場を押え,日本国内にもマッチ工場二社を設立するなどにより、苦しい時代を迎えるが、1932(昭和7)年にはスウェーデン資本の日本撤退や為替安から輸出が立ち直り、マッチ産業も持ち直す。
しかし、その後、第二次大戦に参加していった日本では、生活必需品であったマッチも統制品として、1日4~5本の配給となり、戦時下では、粗悪品のため火付きが悪く、主婦は大いに苦労したといわれているが、私も子供の頃使ったマッチが、本当に火付きの悪かったのを覚えているよ。
戦後の、1948(昭和23)年9月15日、やっと、配給制だったマッチの自由販売が認められた。
戦後もマッチ産業のほとんどは小規模企業からなっていた。その後の科学の進歩により、マッチが余り使われなくなったことから、産業は衰退した。マッチ生産の中心地をなしていた神戸・長田周辺地域は、マッチ工業の衰退に呼応するようにゴム工業が盛んになり、今度は、日本を代表するゴム工業地帯に発展した。
このゴム工業地域一帯は、前の阪神淡路大震災の火災で、跡形もないほどに全焼してしまった。その後、復興はしたものの、ずいぶんと寂しい寂れた町になってしまったのが残念で、仕方がない。
マッチは、広告マッチなどを含め、その図柄が面白く、コレクターも多い。
(画像は、コレクションのマッチ・・・戦後頃のものか・・・?)
参考;
神戸市文書館
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/top.html
(社)日本燐寸工業会公式HP
http://www.match.or.jp/
燐寸博物館 マッチの歴史
http://www.tanaka-match.co.jp/museum/history/
私の別館HP「nostalgia神戸」神戸のこと色々のページの「No47、燐寸工業の神戸からゴム工業の神戸へ」
http://www.geocities.jp/yousan02/kobenokoto-010.htm