前回の花組の時は司会と講師の話が噛み合い、
途中から入ったキムシンの仕切の上手さもあり
とっても面白かったのだけど、
今回はイマイチだった。
前半は、前理事長が喋りまくり。
司会の方は、話を振らなきゃいけなから振っているけど
正直うんざり(に見えた)。
私は外部(いちおうね)の方から見た宝塚の話が聞きたいんであって
前理事長の話を聞きたいわけじゃないんだ!!
後半は、進行の仕切がうまく無い上に(生徒への話の振り方が下手)
公演内容より、「辻が花」の価格ばかり話題にしたがった。
そんなことは演出家も出演者も答えようがない。
会場に来た客が知りたいのはそんなことじゃない。
第一部。
司会は織田紘二氏、講師は花柳芳次郎氏、植田紳爾氏、松本悠里氏。
ミエコ先生は黒のパンツスーツ。脚が長い。
お題は「西洋音楽で踊る日本舞踏について」
・「洋楽で日舞」は、新舞踊運動の流れ。
元祖はおそらく楳茂都陸平先生。
(宝塚の先生でもあった)
楳茂都先生は洋譜が読めた。
・宝塚の最初の作品「どんぶらこ」も洋楽で日舞。
創立当初から取り入れていた。
・海外ツアーにおいて。
洋楽=世界の共通語、ということで
小林先生も大プッシュ。
・芳次郎先生のお話。
早稲田出身で、踊りを始めたのは遅かった。
新舞踊運動の影響を受け、創作舞踊がTV放映されていた。
その番組で芳次郎先生の踊りを見た白井先生が
芳次郎先生へ電話。振付を依頼。
できたのが昭和35年「春のをどり」の一場面。
芳次郎先生の舞踊家デビューは昭和28年の「道成寺絵巻」。
五條珠実先生の相手役に抜擢された。
この作品はフルオーケストラ演奏。
当時は録音機が一般的ではないので
「口(くち)三味線」ならぬ「口(くち)ピアノ」で稽古。
喜多村蓬垂先生のリサイタル出演中に三島由起夫の面接を受け、
「オルフェ」に出演。
ここで初めて「カウント」で振付を受ける。(振付は青山圭男先生)
各自自主練習のあとカウントで合わせると
ピタッと合う。
西洋音楽のすごさを感じた。
・ミエコ先生は昭和32年頃初舞台。
当時の宝塚は、授業としての日舞は少なかった。
上級生は近所の先生のところで個人レッスンを受けている人もいた。
今は授業時間も多く、花柳・藤間・山村と、
複数の流派から教えを受けている。
「何流?と聞かれたら、宝塚流と答えています」
初舞台の思い出・・・・・
その頃の初舞台生は、豪華な丹後縮緬の衣装で出演。
本科生の時、来年はあの豪華な衣装・・・と思っていたのに、
自分の年は女官の矢絣だった
当時は「日本物ができないと、スターになれない」と言われていた
・天津乙女の鏡獅子の映像が出る。(白井先生のショー)
後ろ向きに銀橋を渡る天津を見て、
藤間勘二郎氏はとってもビックリ!されたそうだ。
・再び芳次郎先生のお話。
東宝劇場の東宝歌舞伎に7年出演。
振付・出演。
東京五輪の頃、日本に来る外国人観光客に見せるため、
長谷川一夫先生の発案で、
ナイトクラブで日舞のレビューが作られた。
芳次郎先生が振付。7ヶ月のロングランになった。
93年の「宝寿頌」の「杜若」は能囃子で振付。
最近では「宝塚風土記」の「花灯籠」を振付。
この時のミエコ先生の打掛はエルメスだそうだ。
「長崎しぐれ坂」も担当。
「精霊流し」を踊りに、と言われ、資料映像を取り寄せたが
行列して歩いているだけだった。。。
どうすれば舞踊化できるのか悩んだ。
などなどでした。
芳次郎先生については「舞の道 花柳芳次郎自伝」を読んでね
第二部は、谷先生と生徒さん達の座談会。
進行は横溝幸子氏。
でも、前述の通り面白い話は、花組の時ほどは無し。
・谷先生
・「日本物のショーを作れ」と命令された。
・デビュー作も洋物の予定だったが、
(当時の)若手演出家と飲んでいるときに
「最近和物が少ないなあ」と言ったら
「じゃあ、お前がやれ!」と石田先生に言われた。
・ショーを作るのは初めて。
以前、草野先生がショーの曲に
「マンテ マンテ ディアマンテ」と作詞していてビックリした。
芝居はもっと論理的なのに・・・。
しかし、その歌詞でショーが成り立っていた。
ショー作家は、自分とは人種が違うと思った。
・「妖しいまでに美しい」←とうこちゃんのイメージ
・チョンパがいい!と、とうこちゃんに言われたのに、
とうこちゃんがチョンパにいない理由。
チョンパだと無条件に拍手がおこる。
とうこちゃんへのお披露目の拍手とは別にしたかった。
(先生の心遣いに会場中拍手)
・さくらの花が好き。毎年吉野に見に行っている。
娘の名にも付けた。
・芝居担当の児玉先生もはじめ、とうこちゃんがトップになるのを
誰もが待っていた!
・生徒さん達
・首席卒業からトップは汀さん以来34年振り。
・宝塚大劇場と東京宝塚劇場ではライトの色が若干違う。
東京の方が白が強くなるので、
化粧の配合は東京へ来るとやり直し。
・シャベは、ドーランより、体調によってのノリが違う
・とうこちゃん。
桜の花びらは桜の精なので自然に出てくる。
たまに、ヒラヒラではなく、どぼっと塊になって落ちてしまう。
その時は姿を現したくないと思ってしまう。
・レオン君。
踊っていると、だんだん腰が浮いてくる。
・しいちゃん。
鍾馗さま→旦那へ変わるとき。
髭をとってその辺りを塗り直すので
若干顔が白くなっているかも。
印象深かったのは、こんなところでしょうか。
詳しくはファンサイトなどで御確認ください。
敬称が適当なのはご勘弁を。
また、固有名詞は耳で聞いたのを後日調べたので
間違っている可能性もありますが
そのあたりもご容赦いただければと思います。
谷先生は、見た目は市役所職員みたいな。
穏やかで生真面目そうな人でした。
キムシンより落ち着きがあって
(というより、キムシンが落ち着きがない)
こういう普通の人から、
皆殺しって発想が生まれるのが不思議。
途中から入ったキムシンの仕切の上手さもあり
とっても面白かったのだけど、
今回はイマイチだった。
前半は、前理事長が喋りまくり。
司会の方は、話を振らなきゃいけなから振っているけど
正直うんざり(に見えた)。
私は外部(いちおうね)の方から見た宝塚の話が聞きたいんであって
前理事長の話を聞きたいわけじゃないんだ!!
後半は、進行の仕切がうまく無い上に(生徒への話の振り方が下手)
公演内容より、「辻が花」の価格ばかり話題にしたがった。
そんなことは演出家も出演者も答えようがない。
会場に来た客が知りたいのはそんなことじゃない。
第一部。
司会は織田紘二氏、講師は花柳芳次郎氏、植田紳爾氏、松本悠里氏。
ミエコ先生は黒のパンツスーツ。脚が長い。
お題は「西洋音楽で踊る日本舞踏について」
・「洋楽で日舞」は、新舞踊運動の流れ。
元祖はおそらく楳茂都陸平先生。
(宝塚の先生でもあった)
楳茂都先生は洋譜が読めた。
・宝塚の最初の作品「どんぶらこ」も洋楽で日舞。
創立当初から取り入れていた。
・海外ツアーにおいて。
洋楽=世界の共通語、ということで
小林先生も大プッシュ。
・芳次郎先生のお話。
早稲田出身で、踊りを始めたのは遅かった。
新舞踊運動の影響を受け、創作舞踊がTV放映されていた。
その番組で芳次郎先生の踊りを見た白井先生が
芳次郎先生へ電話。振付を依頼。
できたのが昭和35年「春のをどり」の一場面。
芳次郎先生の舞踊家デビューは昭和28年の「道成寺絵巻」。
五條珠実先生の相手役に抜擢された。
この作品はフルオーケストラ演奏。
当時は録音機が一般的ではないので
「口(くち)三味線」ならぬ「口(くち)ピアノ」で稽古。
喜多村蓬垂先生のリサイタル出演中に三島由起夫の面接を受け、
「オルフェ」に出演。
ここで初めて「カウント」で振付を受ける。(振付は青山圭男先生)
各自自主練習のあとカウントで合わせると
ピタッと合う。
西洋音楽のすごさを感じた。
・ミエコ先生は昭和32年頃初舞台。
当時の宝塚は、授業としての日舞は少なかった。
上級生は近所の先生のところで個人レッスンを受けている人もいた。
今は授業時間も多く、花柳・藤間・山村と、
複数の流派から教えを受けている。
「何流?と聞かれたら、宝塚流と答えています」
初舞台の思い出・・・・・
その頃の初舞台生は、豪華な丹後縮緬の衣装で出演。
本科生の時、来年はあの豪華な衣装・・・と思っていたのに、
自分の年は女官の矢絣だった
当時は「日本物ができないと、スターになれない」と言われていた
・天津乙女の鏡獅子の映像が出る。(白井先生のショー)
後ろ向きに銀橋を渡る天津を見て、
藤間勘二郎氏はとってもビックリ!されたそうだ。
・再び芳次郎先生のお話。
東宝劇場の東宝歌舞伎に7年出演。
振付・出演。
東京五輪の頃、日本に来る外国人観光客に見せるため、
長谷川一夫先生の発案で、
ナイトクラブで日舞のレビューが作られた。
芳次郎先生が振付。7ヶ月のロングランになった。
93年の「宝寿頌」の「杜若」は能囃子で振付。
最近では「宝塚風土記」の「花灯籠」を振付。
この時のミエコ先生の打掛はエルメスだそうだ。
「長崎しぐれ坂」も担当。
「精霊流し」を踊りに、と言われ、資料映像を取り寄せたが
行列して歩いているだけだった。。。
どうすれば舞踊化できるのか悩んだ。
などなどでした。
芳次郎先生については「舞の道 花柳芳次郎自伝」を読んでね
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第二部は、谷先生と生徒さん達の座談会。
進行は横溝幸子氏。
でも、前述の通り面白い話は、花組の時ほどは無し。
・谷先生
・「日本物のショーを作れ」と命令された。
・デビュー作も洋物の予定だったが、
(当時の)若手演出家と飲んでいるときに
「最近和物が少ないなあ」と言ったら
「じゃあ、お前がやれ!」と石田先生に言われた。
・ショーを作るのは初めて。
以前、草野先生がショーの曲に
「マンテ マンテ ディアマンテ」と作詞していてビックリした。
芝居はもっと論理的なのに・・・。
しかし、その歌詞でショーが成り立っていた。
ショー作家は、自分とは人種が違うと思った。
・「妖しいまでに美しい」←とうこちゃんのイメージ
・チョンパがいい!と、とうこちゃんに言われたのに、
とうこちゃんがチョンパにいない理由。
チョンパだと無条件に拍手がおこる。
とうこちゃんへのお披露目の拍手とは別にしたかった。
(先生の心遣いに会場中拍手)
・さくらの花が好き。毎年吉野に見に行っている。
娘の名にも付けた。
・芝居担当の児玉先生もはじめ、とうこちゃんがトップになるのを
誰もが待っていた!
・生徒さん達
・首席卒業からトップは汀さん以来34年振り。
・宝塚大劇場と東京宝塚劇場ではライトの色が若干違う。
東京の方が白が強くなるので、
化粧の配合は東京へ来るとやり直し。
・シャベは、ドーランより、体調によってのノリが違う
・とうこちゃん。
桜の花びらは桜の精なので自然に出てくる。
たまに、ヒラヒラではなく、どぼっと塊になって落ちてしまう。
その時は姿を現したくないと思ってしまう。
・レオン君。
踊っていると、だんだん腰が浮いてくる。
・しいちゃん。
鍾馗さま→旦那へ変わるとき。
髭をとってその辺りを塗り直すので
若干顔が白くなっているかも。
印象深かったのは、こんなところでしょうか。
詳しくはファンサイトなどで御確認ください。
敬称が適当なのはご勘弁を。
また、固有名詞は耳で聞いたのを後日調べたので
間違っている可能性もありますが
そのあたりもご容赦いただければと思います。
谷先生は、見た目は市役所職員みたいな。
穏やかで生真面目そうな人でした。
キムシンより落ち着きがあって
(というより、キムシンが落ち着きがない)
こういう普通の人から、
皆殺しって発想が生まれるのが不思議。