昨日は午後自分史の資料(原稿と写真類)と共に、ほぼ出来上がりつつある仮称「医療人生70年の軌跡」の校正原稿が届いた。終夜まで目を通したがほぼ完全で間違いは無かった。最後に表紙の筆墨書きを依頼されたので、90歳の手習い宜しく、習字して筆力を確かめて居たら、遂に午後11時過ぎとなって仕舞った。小学生以来習字ではその名を鳴らした既往があったものの、随分長い年月筆を執って居ないので、思うように墨書きできなかったが、年齢相応の“枯れた筆描き゛が出来たので午後編集室へ送ることとした。これで大丈夫であろうと思う。漸と今年中の為すべき役割が済んだ事と成ろうと思われる。夕傾から弟子の祝賀のための同門会へ出て祝賀の意を披露してこようかと思う。幸い天候が晴れて陽の光りが射し出てきた。今日も良い日になることを祈っている。
不順な天候で明け暮れした本年は、此処年末には関東地方では、幸いにも晴れの小春日和の好天気が続いている。午前10時雲の晴れ間から太陽の陽の光りが覗いて、ベランダの植木達も元気を取り戻している。雲が移動して陽光を遮る度に一時の曇り空が訪れるが、また晴れて小春の穏やかな静けさが戻る。植木達には十分に水を与えたところである。遅れ咲のブーゲンビリアの2鉢も昨日辺りから花芽を出してきたようで、この先が楽しみである。もう明後日は冬至である。
今日は、約2ヶ月に一度の今年最終の検診日である。朝早く息子夫婦と一緒に車で玄関を出発した。街並みは車がまだ少なく、却って矢鱈に信号機が目に着いた事は驚きであった。普段の混雑する車の輻輳状態からは一寸想像出来ない位の車の空いた道路状況であった。程なく息子の病院へ着き決まった手続きをして順次検査を受けた。予定時間より早めに呼ばれて担当医から診察と検査の結果の報告を受け、一先ず安心して帰宅の地下鉄に乗って三茶で下車、そして薬局で投薬の薬剤を貰って昼食して帰宅できた。天気は麗らかに晴れてとても気持ちが良かった。留守中家内が三茶までお買い物に出かけ、ほとんど同時刻に帰宅したところであった。疲れた様子だったのですぐ休んで貰ったところである。検査結果は年齢相応の変化は見られたものの、大きな異常がなくほっと一安心であった。午後小憩と洒落込んで昼寝を試みた次第である。
朝から太陽が燦々と輝き家々の屋根を照らし始めている。これが年末の陽気か!明日は病院の検診である。翌々日教室の同門生の祝賀会があって今年は全ての会が完了である。大事なことはその週の土曜日の23日には私の自叙伝の草稿の梗概が出来上がって、最後の製版前の校正のために届けれれる予定である。最近での最も嬉しい事柄である。昨日は、京都地方は雨雪であったそうである。年末には親子兄弟孫達までも此処東京の我が家に集まって、皆で楽しい忘年・新年会が開かれる事が決まった。メイは居なくとも楽しかった思い出を追悼しながら、娘のワンコ達も全部集まるそうで、楽しいことこよなく嬉しいことである。今から準備おさおさ怠りなく楽しみであり、期待に夢が膨らむ。今日今朝の天気のように、天真爛漫に明るく前向きに、皆で新年を楽しく言祝ごうと思う。
朝晩の暗さは流石冬至が間近である証拠である。間近と言ってももう5日後である。お正月に向けて短日が徐々に日長になるので、お正月の気分は明るく爽やかとなるものである。昨日は年賀状200枚を近くの郵便局に投函委託した。 第1番であったので兎に角気分が良い。今年もあと2週間で終わりであるが、何と言っても嬉しいのは。吾輩の「自叙伝」が組み版が終えて、来年早々に上梓できることである。今まで時流に流され自分史を3つのパッソコンに記述して来たが、いざ、同門会でその出版を依頼されたとなると、良い加減では済まされないからである。字句や表現方法、個人情報秘匿など、機微に触れる箇所など入念に記入せねばならず、中々手間暇のかかる大事な作業なのである。然し何と言ってもこの仕事を承知し、請け負ったからには、どんな事態が起こってもやり遂げねばならず、使命は重大である。気侭に期限なしで自助努力でやろうとしても、容易に先に進まず延々尻切れトンボに終わるのが関の山かも知れないからである。そんな意味で、日時の期限付き、総字数、写真の枚数制限などは、当然であり、それなくしては今回の企画の成功は覚束なかったであろう。来年2月10日の同門会総会が、出版の記念会にもなる予定である。
今日は一日中全くの曇り空の筈であった。それが全くの日本晴れとなって仕舞った。天気予報は本当に当てにならない。良く晴れたのは結構喜ばしく嬉しいには違いないが、悪く変化するよりは遥かに良いので、幸運の極みである。家中が綺麗になっているので気持ちが良い。23日土曜日の自分史(じょじゅつし)がどんな形で届けられるか、不安と楽しみが交錯している心情にある。ちょうど一週間前の9日故郷の姉に墓参りした序でに、生家の前を通ったら、いつの間にか生家は全部壊され跡地は広い道路になって居り、真ん中を側溝が北方向に伸びて居た。甥の車で通過中だったので、変化を良く確認できなかったので、もう一度現地に行って確認したい気持ちである。懐かしさは人一倍強いのである。
年末も15日を過ぎた。新年まであと半月2週間である。一向に年賀状の受付日の報知が無い。こちらはとっくに年賀状をプリントして差し出す日を待っているのにである。今日がその日かと思って居たが何も報知されて居ない。喪中のはがきが大変多く到着しているので、また遠慮してもお歳暮が数多く頂き配達されていたので、返礼用のハガキが0になって仕舞った。これから郵便局に行って来ようかと思う。今日は午後0時から15時までは晴れて、それ以外はいつも曇りだそうである。日内変動の多い今年の天候が、今日もその傾向が当て嵌まって仕舞った。天気が悪いと、1日の行動がどうしても制約されてしまうのは私一人では有るまい。スッキリしない天気、早く青天白日!になって欲しい。
このところ関東地方は恵まれたお天気続きである。朝8時半には太陽の光が家々の東面に差し昇るし、青空が空一面に広がりを見せ宛ら澄んだ空気が街の家家を優しく包んでいる。本当に麗しい光景である。二日ばかり植木達に水を控えて太陽の光を十分に与えたので、今朝はたっぷり水やりを試みた次第である。これで気温が上がって日の光でもベランダに差すと、植木達の1日の活躍が開始されよう。昨日は娘と連絡がうまく取れて此のブログの製本化を欧文印刷社に依頼することができたし、自分の自分史つまり自叙伝の印刷用組版もこの23日に届けて貰えそうで、有り難く嬉しい事尽くめである。果報は寝て待とう!と思う。
今日こそは、屋上から眺められる空は真っ青、富士山や丹沢山系がくっきりと空に浮かんで遥かに見えて、とてもこよなく山容が綺麗である。屋上に昨夜入浴後の着替えた下着や寝間着をいっぱいに干すことが出来た。これから元気に、家内と共に1日1日を有意義に暮らそうと思う。娘に家内の様子を携帯のメールで送った。お互い喜んでもらっている。嬉しいことである。ただメイが亡くなって一週間、此処に居ないのが、矢張り何とも寂しくて堪らない。さて、ところでメイが亡くなったので、ブログを永続する根拠が薄くなってしまった。今まで、医師の娘に頼んでブログを此処13年余り書籍化して貰って居たが、今夜電話でパスワードが判明して、注文が出来たとの遣り取りが完了した。従って最近約2年ぶりのブログの書籍化は、これを最後に終了することとした。今までの書本が15冊程書斎戸棚に年代別に並んで居り、約15冊でこの長い日記帳を閉じることは残念だが、止むを得ないこととした。自分の生涯の自分史ともなるのであり、娘・恵美子の15年余の労苦に感謝いたしたい。勿論内田家一統一族の皆さんにも同様である。
まだメイが逝ってから初七日が過ぎたばかり、寝ていて思い出したが、それは娘が撮影した写真であった。寝室の奥からそれを発見した。急ぎ額を磨いて居間に飾り直した次第である。額縁は汚れ止め金の錆が写真の裏紙に跡を残して、さすが16年余の年輪が数えられよう。在りし日の懐かしい思い出の数々、日毎の動作の中で、ついつい回想が重なってならない。若さと運動好きのジャックラッセル、若い人の居ない家には向きませんね!と言われた程の活発なメイであった。思い出は尽きない、帰着するところを知らない。京都、奈良、伊豆、赤沢、加須、不動岡、菖蒲、近くは世田谷公園、駒繋神社・公園、子の神公園などなど、いつも一緒に連れ添って、運動にお散歩に一緒だった! そのメイが、今此処にもう居ないのが、寂しくて堪らない。心から冥福を祈っている。