浪漫飛行への誘(いざな)い

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旅するためのドイツ語

2022年05月27日 05時30分06秒 | ドイツ

 

かってNHKのドイツ語講座を担当されていた小塩節先生が先日亡くなられて寂しい思いをしていたが、そう言えば、今のドイツ語講座はどうなっているか気になって調べたら、テレビのEテレで「旅するためのドイツ語」という番組が放送されていることを知った。昨年の11月からスタートしたようで、「現地映像をたっぷり味わいながら旅先で役立つドイツ語フレーズを学びます!ベルリン、ハンブルク、ミュンヘンをめぐるドイツ三都周遊記!」という謳い文句になっている。25分番組だが、毎週水曜日の朝6時と夜11時30分と木曜午後3時の3回放送されているようである。

たまたま見た25日は、7回目の放送で、ベルリンから電車で1時間半ほどのところにある水と森の里、リュベナウという街への旅にまつわるドイツ語の勉強であった。自分が西ドイツに住んでいた時、リュベナウは、東ドイツであったので、残念ながら行ったことはないが、運河と森に囲まれた美しい街のようである。旅番組を楽しみながら言葉も勉強できるので、一石二鳥の感がある。

久し振りにドイツ語を耳にしたが、懐かしさが蘇ってくる。残念ながら、ドイツ語は勉強する機会がなかったが、4年半も住んでいたので生活用語だけは今でもよく覚えている。文法もわかっていないが、生活していくのに必要なドイツ語は喋ることができた。簡単な日常会話とか、数字とかはよくわかっていた。ドイツでも卓球をやっていたが、カウントはドイツ語でやっていたので、数字もよくわかっていた。2のツヴァイは、3のドライに発音が似ているので、2は、ツヴォと言っていた。職場で食事に出かける時は、マ-ルツァイト(食事の時間)と言うとか、くしゃみをしたら、ゲズンタイト(健康)と言うとか、レストランの会計で、個別には、ゲトレント、まとめては、アレスツサーメンと言うとか、タクシーでまっすぐに行けというのは、ゲラーデアウスと言うとか、左に曲がれはリンクスと言うとか、理髪店では、ニヒトツクルツ、ニヒトツラング(短くもなく長くもなく)と言うとか、生活用語は忘れないものである。あと何回続くのか知らないが、ドイツ旅行が楽しめるようなので、ドイツ語の習得は無理としても見続けようと思う。

 

ドイツ訪問都市150: https://youtu.be/DjOY702iaXI

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チェルノブイリの原発事故

2018年05月27日 07時10分56秒 | ドイツ
1986年4月26日にあのチェルノブイリ原子力発電所の事故が発生した。当時、フランクフルトに駐在していて、少なからずその影響を受けた。ドイツ語はよくわからないので、テレビを通じて、何か事故が発生した状況は何となく知っていたが、その詳細は不明であった。ドイツへの影響がどの程度のものかよくわからないまま数日を過ごしていたが、どうも放射能が流れてくるので、自己防衛したほうがいいとの情報が耳に入ってきた。すぐに、帽子を買って、外出する時は、子供にも帽子をかぶせることにした。そんなことで放射能を防げるとは到底思えなかったが、確かな情報はなく、そうするしか他に手立てはないというのが現実であった。

大使館・総領事館や日本政府から、在ドイツの日本人に対する有効な情報提供はほとんどなかったような気がする、ドイツ人はかなり防衛措置を取っていたようであるが、我々日本人は全く無防備であった。外出を控えよという指示もなかった気がするし、現に、5月1日には、予定通り、ケーニッヒシュタインへ、また、5月8日には、ポニーホフローミューレという所に遊びに出かけていた。本当は、外出を控えるべきだったのかもしれないが、よくわからなかったので、安全な行動は取れていなかった。突発事故で、当事国はもちろん、周辺国や日本でもパニック状態にあったのだろうと推測する。海苔を食べたらいいとかの情報で、日本から来る人に海苔を買ってきてもらったりもした。あれからもう32年経つが、未だに事故処理は完結していないし、自分たちも後遺症が出ていないことを祈るのみである。

写真は、帽子をかぶって遊園地で遊ぶ
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大家さんとのおつきあい

2018年05月24日 06時38分24秒 | ドイツ
1985年にフランクフルトに着任してから、まずしなければならなかったのが住む家探しである。初めての海外勤務の上、新しい仕事への不慣れもあり、毎日の生活でアップアップ状態の中で、家を探すのは至難の業でもあった。ホテル住まいをしながら、家を探したり、車を探したりするのだから、今考えるとよくやったとも思える。

家は、何軒か見に行ったが、街に近いところで、再開発で新しいマンション群ができつつあるところが若干狭かったが、気に入って、即決した。全くの新築で、マンション前には大きな公園ができるということだったが、入居当時は、まだ泥だらけでショベルカーで造成中であった。一角には日本人も何家族が住んでいて、環境も大変よかった。大家さんは我が家と隣りの部屋の2軒を持っていたが、初めてマンションを購入したとのことで、入居前から大家さんが来ては掃除をしていたのが印象的であった。

ドイツとしては狭いほうで、2LDKで84m2であったが、リビングは広く、ゲスト用のトイレもシャワーも付いていた。会社の規定で住宅補助が出るが、家賃が安いため、照明器具、冷凍冷蔵庫、洗濯機、皿洗い機、テレビ等の備品はずべて大家さんの費用で設置してくれることになった。その内、テレビだけは、こちらで好きなものを買って後で代金を払ってくれるという契約となった。近くの電気屋でテレビを買うことにしたが、ほとんどが契約料金以下であったので、一番高い最新のステレオテレビを購入した、お店でテレビを選んでいる時、「もっと高いものはないか?」と聞いて買物をした最初で最後であった。普段は、もっと安いものはないか?と聞くことがほとんどなので、貴重な体験であった。

大家さんは、夫婦とも大変いい人で、我々日本人に大変親切に接してくれた。大家さんは、夫婦とも、ギムナジウムの先生で我々日本人に大変親切であった。とにかくいい人で、時々、お土産を持ってやって来たり、クリスマスには子供にプレゼントを持ってきてくれたほどである。家に招待して日本料理をもてなしたこともあるが、クリスマスに彼らの家に招待されたこともあるほど、親しいお付き合いをさせていただいた。

隣りの家には、当初、イギリス人とフランス人のカップルが住んでいたが、彼らが出て行った後は、日本人に貸したいということで、同じ会社の実習派遣員家族が住むことになった。4年ちょっとこのマンションにお世話になったが、前の公園も緑豊かな素晴らしい公園となり、本当にそのマンションでよかったと回想している。当時、地元の卓球クラブに所属して、卓球を楽しんでいたが、偶然にもそのクラブは公園の端にあり、徒歩で数分という距離であった。クラブにはドイツ人の友人の紹介で入ったものであるが、それがこんな近くにあるとはラッキーであった。

ドイツを離れて、もう30年近くになるが、フランクフルトに行くたびに、住んでいた我が家を見に行っている。当時、植えられた草木がいまや鬱蒼と茂っていて、素晴らしい公園となっている。大家さんとも帰国後にフランクフルトに行った折、2、3回お会いしている。彼らは寄せ書き帳みたいな日記を大切に持っていて、ある時見せてくれた。第一号として我々の寄せ書きから始まっており、感慨深いものがある。お互いに年をとったが、その後も電話では何回か話をする機会もあり、いい大家さんにお世話になったものと感謝している。

写真は、住んでいたマンション(2017年撮影)
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小塩節先生との出会い

2018年05月21日 22時06分35秒 | ドイツ

 

小塩先生は、1967年から1985年まで、NHKラジオの「ドイツ語講座」を担当していたので、お世話になった人も多いのではないかと思うが、ちょうど自分がドイツに転勤になった頃、ドイツの日本大使館公使、ケルン日本文化会館館長として、ケルンに滞在されていた(1985〜1988年)。自分自身、大学での第二外国語はフランス語だったので、定期的に聴いていたわけではなかったが、素敵な声の持ち主でラジオを通じて少しは存じ上げていた。ドイツ文学者としても有名で、ドイツ赴任前に彼の本を一冊だけだが持っていた。

小塩先生のエピソードとして、真っ先に浮かぶのが、ローレライの一件である。当時、ライン川にあるローレライは観光地として有名で、日本人観光客が多数押し寄せていたが、なんとローレライの岩の下の河岸にカタカナで「ローレライ」と書かれていたのである。場所がわかりにくいので、親切心で設置したのかもしれないが、それを見た小塩先生は日本人として恥ずかしいのですぐにその文字を撤去するよう働きかけ、今ではドイツ語表記のみ残されている。

最初の出会いは、1986年にフランクフルトで、小塩先生の講演会が開催された時であったと思う。次に、ドイツ人客室乗務員の採用にあたって、その研修の一つとして講演をしてもらったと記憶している。ドイツから名古屋に転勤になった時に、たまたま名古屋で小塩先生の講演会が開催され、再会することになった。その後、東京に戻って1994〜1998年まで、航空券を販売する関連会社に出向していたが、その時、小塩先生から航空券の手配を何回か頼まれてやりとりすることがあった。当時、小塩先生は、フェリス女学院の理事長をされていて、卒業生の就職先企業に学生をPRするパーティにたまたま参加して、お話をする機会もあった。

それから何年かして、客室乗務員の教育を担当されていた仕事上の友人が当時文化事業の業務を担当していて、小塩先生に大変お世話になっているとのことで、一緒に食事をするお誘いを受けた。当時、渋谷でドイツ時代の仕事仲間がオーナーをしていたドイツ料理レストランで、フランクフルト時代の支店長と計4人で旧交を温める機会を得た。このドイツレストランはもうなくなってしまったが、今の皇太子殿下と雅子さまがお忍びでドイツ料理を食べに来たことがあったほど雰囲気のあるお店であった。

その後、先生は一時体調を崩されたが、回復された時にお祝いを兼ねて同じメンバーで一緒に食事をする機会があった。遠出は難しいということで、先生のご自宅の近くで会食し、家にもお邪魔させていただいた、ご自宅は経営されている幼稚園に隣接していて、幼稚園とご自宅の両方にお邪魔させていただいた。英文学者の奥様ともお会いし、書斎も見学させていただいた。

個人的には残念ながらドイツ語を勉強する機会がなかったが、生活用語だけは今でも覚えている。小塩先生が書かれたドイツ語の本も何冊か持っているが、宝の持ち腐れの感がある。若い頃に先生からドイツ語を習っていれば、少しは物になっていたかもしれないと残念な思いである。

写真は、4人での会食風景(手前が小塩先生)


YouTubeは、ローレライ  https://www.youtube.com/watch?v=_c7ji5nHt6c

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小塩節先生との会食

2014年01月27日 21時03分55秒 | ドイツ

先日、ドイツ文学者、元NHKドイツ語講座講師として、ドイツやドイツ語に関わった人なら誰でも知っている小塩節先生と会食する機会があった。下井草にお住まいでご自宅に隣接した幼稚園の園長もされているが、ここ数年病気をされたこともあり、遠出はできないとのことで、ご自宅近くのレストランに現役時代の上司や先輩二人とともにお邪魔し、会食しながら懐かしいドイツ時代の話で盛り上がった。

小塩先生とは、フランクフルト駐在時代、先生も大使館公使としてケルン日本文化会館館長を務めておられ(1985-1988)、講演会をお願いしたり、交流する機会が何回かあった。NHKドイツ語講座の講師として存じ上げていたので、交友する機会に恵まれたのはラッキーであった。当時、ローレライの下の川岸ところに日本人向けにカタカナで「ローレライ」と案内表示されていたのは、あまりに違和感があるとして文字を削除させたのも小塩先生である。今では、Loreleyとだけ表示されているはずである。

帰国後、名古屋時代にやはり講演会でお目にかかる機会もあった。ドイツ語は当然ながら、ドイツ人やドイツ文化についての話などいつも興味深く伺っていたが、東京に戻ってから、ドイツ旅行のお手伝いをさせていただいたこともあった。その後、知人を介して、4年ほど前いっしょに食事をする機会がありましたが、その後、病気をされていたとのことで、今回4年ぶりにお会いする機会を得たものである。

久しぶりにお会いしたが、とてもお元気そうで安心しました。ご自宅近くのレストランだったので、会食後、小塩先生が経営されている幼稚園とご自宅にも案内していただいた。書斎や書庫も見せていただいたが、先生の著作をはじめドイツ関係の書籍がぎっしり。先生によると今まで書かれた本は99冊だそうで、近いうちにゲーテに関するもので100冊目を計画しているとのことであった。ますますのご活躍をお祈りしたい。

小塩先生のウィキペディア


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A1%A9%E7%AF%80.

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