飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

植草一秀さんを有罪にした裁判長とは?②

2009-06-29 14:44:11 | 植草一秀

いつの間にか、裁判所が、
司法機関ではなく、司法行政機関に変質した!!
法を司るだけではなく、法を司りつつ、政治を行うようになれば、
これはすこぶる危険だ!!


 これは、拙稿にも繰り返し述べてきたことである。『裁判所よ!お前もか』で、その危惧を感じ取っていた。


 直截に言えば、裁判官にもいろいろ居る。所詮は公務員である。公務員たるものは、俸給で生きる。地位も名誉も欲しいであろう。清廉潔白を期待することは無理かも知れない。で、当然の事ながら、組織を睨み、世情を睨み、我が身の保身を、又、名誉に心致すことは無理からぬと見ることが出来る。


 それをすべてなくせとは言わないが、せめて『真実』を第一にしてほしい。それこそが唯一裁判所に願う国民の大多数の意識である。


 ところが、今回の近藤崇晴最高裁判事は、裁判官としての心構えについて、『(前略)  そして,裁判所が法解釈をするに当たっては,いろいろな法律問題についての理論的整合性を追求する必要があり,場当たり的なものであってはなりませんし, さらに,何よりも大事なのは,結論が健全な社会常識に合致したものであることだと考えます。そのためには,社会と人々の心の動きを鋭敏にキャッチできるよ うな感性を研ぎ澄ましたいものだと願っています。』と述べている。

Kondou


 おやっと思う。『真実』の追求よりも、理論的整合性が大切らしい。最高裁判所が事実審理よりも法律論を争う場であることを認容しても、容認出来る話ではない。一般国民は、裁判所は『真実』を追求する最後の砦と思っている。


 さらに、『社会常識』 、『社会と人々の心の動き』云々の行(くだり)に至っては、この判事は、行政マンだと確信した。彼は、『真実』の追求よりも、政(まつりごと)を優先したのだ。最近、こういう裁判官が多い。だから、官製事件には冤罪が多くなる。


 これに対抗するには、詰まるところ、政治的結集を大きくする以外はない。政権交代して陣容が変わると、全く正反対の判決が出ることを意味する。そうするしかない。


 それにしても、三権分立など、有名無実な話ではないか。そんなもの初めからないに決まっている。近代政治体制の表の顔で、権力支配構造では、ないに決まっている話ではないか。との、声も聞こえる。確かにそうであろう。そうでないという理由は見あたらない。


 しかし、理想はそうではない。少なくとも一般国民感情からすれば、裁判所こそ、『真実』を明らかにする最後の砦だと思っている。それに近づけるこそ、裁判所の使命だと思われるが、賢明な諸氏の感想を伺いたい。