飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

宇宙母船を想わせる奇妙な雲が、モスクワ上空に.....。

2009-10-13 20:34:17 | ETV

これぞHAARPの仕業??
いずれにしても気象操作の一環だろう!!
UFOなら、ずっとましな現象と言える......。



 UFOなら、結構ではないか?! 何も心配することはない。電磁波による気象操作なら、問題だ。とにかく、操作される必要は、さらさらにないことが近年多すぎる。


 操作すると言うことは、目的がある。操作する側に目的がある。自然は無為であるから、無情であるからしょうがない。操作することにろくな事があった試しはない。経済もそう、気象もそう、政治など操作そのものである。


 そういうことは、やがて、潰える。操作である以上、自然の無為無情の大調和により、一網打尽に水泡に帰することを怖れなければならないだろう。


 丁度、ソドムとゴモラが一夜にして、死海に没したように........。


Strange Cloud Formation/ UFO Mothership Over Moscow October 6, 2009
http://www.youtube.com/watch?v=EopIdYAR5BE
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暴かれるか、日本航空123機墜落事故の真相?!②

2009-10-13 17:49:38 | 123

謎が多い日本航空123機墜落事故
しかし、信憑性にイマイチ欠ける追求情報!!
それが一変するかも知れない.......。
渾身の情報が発信されつつある!! 第2弾

   

 それは、真実を見極める事に、何よりも意味がある。事実を確実に積み重ねることを第一義とするが、その事実が真実かどうかは別物である。事実は時として、真実を隠す事もある。それは事実がいくつも存在するからである。このアントヌッチ証言も事実であろう。


 しかし、アントヌッチさんの事実であって、真実を意味しない。これらの証言をどう読み解くか、それが真実を追究する上に、大切な作業がある。次回は『アントヌッチ証言の背景』と転載を続けるが、併せて検証して頂く必要がある。


 その余の部分については、転載を割愛しているので、元記事((新) 日本の黒い霧 )をお読み頂くと良い。


 ここで、重要なことは、日本航空機123便墜落現場は、早くから突き止められていたと言う事実、その後、米軍による救出活動が中止させられたという事実、そして、そのやりとりは事実であろう。また、後に口止めされたと言うことも事実であろう。


 何故かと言うことが解明されれば、真実が見えてくるが、焦らず事実を見極めていきたい。


 この証言が、95年になって発表されたことも事実であるが、その意味するところは考えようによって、真実が見えてきたり、隠れてしまったりする。そこが事実=真実ではないと言うことである。それは次回に譲ろう。


 ともかく、発見の事実からすると、実際、救出開始までのタイムラグがおよそ10時間に及ぶ。これは紛れもない事実。その理由こそ、真実解明の手がかりとなる。


 先ずは、お読み頂きたい。


【転載開始】JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(2)

2009-09-06 03:14:34 | 日記

■アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す 結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実 際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生 存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事 故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

(図:米軍のC130輸送機)

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、 日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無 事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の 標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整の みで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを 聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めっ たにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消 えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かっ た。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取っ た。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣 鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始め ていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。 事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在 地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいな い様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそう いった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場 までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の 飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとん ど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であっ た。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上 もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ 出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れてい た。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。 私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したの だから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者が いたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動け なかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こ え、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海 兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが 見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地 点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊 は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったと きから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは 日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当 時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかっ た、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離 れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちより も2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するな んてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と 海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ 離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことなが らあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マ スコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」
私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れてい る。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震 え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている
------------------------------(ここまで)------------------------------

以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記します。

1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい
2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ
 が救難に向かったのが正しい
3.[5]123便が横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、
 123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい
 →私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思います。理由は次回以降に
  論証する予定です。


DICIT ERGO PETRO ANCILLA OSTIARIA NUMQUID ET TU EX DISCIPULIS ES HOMINIS ISTIUS DICIT ILLE NON SUM

管理者【転載終了】


高野山に行ってみた、抜ける空であった.......。

2009-10-13 13:39:57 | エッセイ風

紺碧の空、深まりゆく秋........。
日だまりが恋しくなる気候、
高野山は、1200年を迎える歴史を、
観光客で賑わっていた.........。



 理由は前回に記したので、今回は書かない。コメント各氏には、返事が遅れたのをお詫び申し上げる。本稿の後、すぐ認(したた)める予定だ。申し訳ない。


 

 どこまでも抜ける紺碧に秋空であった。四国八十八ヶ所最終5ヶ寺行脚を終えての高野山詣である。

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 世界遺産登録の山間の寺(117寺)町は、深まりゆく秋に急速に衣替えの最中である。玉石混淆の参詣人、観光客でごった返していた。この光景が、1200年近く繰り返していると考えると、日本も捨てたものではない。少なくともメッカと並ぶ歴史がある。規模は遙かにこじんまりしているが、礼儀はすこぶる正しい。

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 寺町には違いないが、中には、アクセサリーではあろうが十字架を首から提げた女性もいる。外国人も多い。取り分け、若者が多いのが目に付いた。巡礼の『南無大師遍照金剛』は寧ろ少ない。連休のせいもあろう。絶好の行楽日だ。まさに玉石混淆の巡礼地の姿がある。

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 目に付いた看板。

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 すぐに後がでた。

        『咲せよ花を

           花の命は 短いが

              咲くこと自体が花の命

                   ただ咲くことに、意味がある

                 路傍の花も、ただ懸命の咲いている

                     ただ み仏に生かされる

                         ただそのことに

                            なみだする日もきっと来る』(駄文)


 

 奥の院には、歴代の祖廟が広がる。歴史が突然、眼前に飛び込んでくる。

20091012_002


 中には、吹き出すものもある。吹き出すのも失礼な話だと、懸命にこらえる。やっぱり、面白い。

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 意味をちょっと考え込んでしまうものもある。

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 高野山と何だろう。少なくとも山の名前ではない。一帯の総称とある。


 諸行は無情であるが、生命(いのち)は有情の裡に時を経る。故に苦悩(なやみ)や歓びを経験する。その営みが不思議と言えば不思議である。その両方が混雑する高野山である。


 宗教宗派も渾然一体だ。一応、真言宗総本山となってはいるが、神道と思しき佇まいも少なくない。歴代天皇の行幸も多い。

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高野山から出た預言もある。


 撮影禁止の大師廟は、今も護摩の火が絶える事がない。即身成仏の大師が今も生わしますると、されている。撮影は出来ないので、ここではお見せできないが、丁度、昼餉時、正装に正した坊主が、三名、大師の昼餉(?)と思しき料理を威儀を正して運ぶ姿に接した。


 大師は生わしまする。それで今も時間が流れている。撮影も禁止、脱帽。喧噪もかき消す荘厳な雰囲気が辺りを圧している。それに素直に従う人々がいる。


 有情と書いたが、奥の院の数多の墓石、祖廟の数々はそれを物語る。細君が、投稿者が写した写真を指して、『あっ、心霊写真!』と叫んだが、そんなことはあるまい。単なる木漏れ日の影響だろうとは思うが、はっきりとは分からない。分からないが、そんな有情も多数存在することも理解できる。

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 投稿者は幽霊を怖がらない。幽霊は肉体のない、幽体にしか過ぎない。霊体そのものも伴っているか怪しい。人間は幽体に霊体を伴っれっきとした魂の乗り船だ。方や、難破船のごとく欠片に過ぎない。怨念の残る、普通目に見えないエネルギーの残存物と考えているから、怖れない。

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<88番札所大窪寺にて>


 

 しかし、気味の良いものではない。出来れば、穏便に昇華(しょうげ)してもらう必要がある。それには、生きている人間の想念の有り様が大切だと考えている


 聖地という聖地は、有情で一杯だ。そんな中で、諸行無情は織りなされていくものと思う。あんまり拘泥しても始まらないし、静かに昇華(しょうげ)するのを見守る事が肝腎だ。その有情を、様々な思惑が利用しようと画策する。このことが問題だ。


 世界は有情の混乱の瀬戸際にあるように思われる。


 そんな中に、静かに佇む聖地高野山に一抹の安心感を覚えるのは、投稿者ばかりであろうか。日本は大丈夫。いろいろあろうが、1200年の間にも、様々なことがあった。たかが数百年の世界の陰謀術策に、日本が沈没することなどあり得ないと、確信した。